71.  伊丹瑞穂  18

話が前後するが、1992年かそのあたりで、全国の事業部制が無くなった。
1985年からだとおもうのだが、それまでは、くくりとしては関東関西中部のくくりで
会社も大きくなり、創業の時の「100店舗までのマネジメント」を事業部制で
やるということで、あったが、場末のぼくが考えるに、コストカットで
事業部をもっと、でかいくくりで全国に7つの事業部とし
エリアごとに、マネジャーが管理する、5店舗程度のもので・・。

このあたりから、社長の思惑とは別な方向で動き出したように思う。
山陽四国事業部は、30店か40店ほどあった。
部長ごとにカラーがでて、異動はほとんど事業部内であり、
そういう店がナショナルチェーンの形ではよくなかったかもしれないが、
ぼくは、この事業部制のあり方のほうが良かったと思う。

まず、いい店と言われる指標である。様々な数字があるが
そのカウントダウンを事業部で行い、その数字とは
料理粗利率の実際の数値との、理論差といわれるもので、その数値は
毎月、店長会議で発表された、前年客数、売り上げ、人件費率
などなどである、その数値というのは店長の力を示すものであり
コスト管理に強い店長はどこの店に行ってもいい数字を出せるし、
そのことのノウハウはそこの社員たちも共有できるものであった。
要するに、どうやれば結果が出るか、マネジメントができるかを
数値と実践をもって、学べるのであった。
悪い数字を出してる店長はやはり特定の人であった。
衛生管理も店長会議で具体例をあげて、指導員がわざわざ
会議に参加して、どうすべきか、どうあるべきか、を話機会があった。

しかし、一切そういうのはエリア制では無くなった、学ぶべき機会がなくなった、
エリアが小さすぎると一人で管理はできるものの、井の中の蛙になる。

事業部制から本事業部制になり、九州事業部も同じとなった。
合同で九州でわざわざ店長会議があるというので、参加、
店を視察にもいった。
驚くべき光景、レベルの高さを感じ入った。
キッチンのクレンリネスのレベルがちがう、半寸胴や手鍋など
全部、ぴかぴかであった、フードもぴかぴか、
4s2Sも完璧。

なぜ、そんなにレベルが高いかは、小俣さんという部長の力と
若い店長のがんばりでもあった、しかし、いい面もあるが悪いとこもある。
関西のいいところ、九州のいいところそこが切磋琢磨できればいい
と、事業部本部長は考えていたようだ。

そんなわけで、九州と関西と人事交流をしだした。
原店というすごい店に、まず、四国からYさんがいった。撃沈。
まあ、ここでは書きませんが、続いて、当時は早くからワンマネをしていた
芦屋の西口さんが異動を命じられたが、単身赴任はだめ、という
わけのわからない理由で没。
そこで、大川原さんは、ぼくに原店にいかないか、と、
ぼくはにべもなく断った、初めてだ、
もう、二度と遠距離恋愛はしたくないと、当時、つきあっていた女の子が
いたからだ、その女の子は、行ってもいいよ、といったが、
家も母子家庭だったし。ぼくも九州と関西を股にかける自信がない。
事情を話して、断った。
そのあと、わざわざ、本部長からも電話があった。
あとで、思い返すと、これが一つのぼくの分かれ目であったろう。
こいつはダメだ。という裏評価が再びついたと思う。
代わりにいかされたのが、同期の田上であった。かれはまだ店長になって
いなかったので、内心、良かったと思った。
のちのち思い返すと、結局、その女の子には降られて別れるんだが、
大川原さんがいった、そんなことでも別れないひともいるし、本人次第だ
と、言っていた。
でも、ぼくは知っていた、関東から関西にきたときに、大川原さん自身も
遠距離恋愛で苦しみ、結局、別れていたことを・・。

そのずっと、あと、今度は大川原さんが九州に異動。で、なんと原店でいまの奥さんとであい
再び、関西に帰ってきて、その人と結婚。不思議な巡り合わせだった。

ぼくは、地方に異動しようかしまいが、新店で苦労するかしてないか
そういうことは、一切、評価されなかったので、自分の苦労はまったく
報われない、断っていたひともぼくのように、やってきたひとも
同じなら、断るのが当然だ、損だ、と、そのときは思い始めていた。

しかし、いま思い返すと、あのとき、行って、九州で苦労した方がのちのち
道も開けて昇進もしてたかもしれない。

難しいところだ。








今はなき(旧)すかいらーく、その会社にぼくは費やした時間と情熱を思い出させずにいられない。

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