63. 伊丹瑞穂店 11

店も安定し、担当のSVが、大角さんから、大川原さんに変わった。
大川原さんとの長いつきあいが始まった。
社員の研修会が店の近くであり、宿泊もあり、
実地研修も当店で行われた、そのときに鞄をわすれ
中を見ると、パンツがはいっていた、
大川原さんとのであいは、その忘れたパンツからだった。

大川原さんは埼玉から転勤で、同期ではトップの出世で
関東人が嫌がる関西に来た。

当時は、関西に転属になるのは、みんな嫌がる。

大川原さんは、最初は広島担当で、
そこでは、広島観音本町を評価していた、事業部ではQSCすべてに
おいて事業部ナンバーワンで、べた褒めであった。
そして、今度は当初は、瑞穂のことをべた褒めしだした。
新店のこだわりを目標をして、やってきたから
当然、既存店よりはきちんとしていて当然だし、当時は
バブル飲頃で、既存店は売れに売れて大変だった。
営業を回すのでせえ一杯。

次の年、1992年3月で副店長の蔭木君が異動となり、
一足早く、回りの店は三人体制の店であったが、
二人体制の店になった。相当これは、きつかった。
平日は月から金までは、一人勤務、ランチかラストが
準社員だけで行えないとだめ、
ラストは、どうも、893などが着始めて、無理。
ランチをなんとか、しようとしていた。
ランチのフロアーは、意識の高い、市川さん、小笹さん両名が
仕切り、新人も採用でき、完璧であったが、
キッチンがダメでどうしようもなかった。
ランチのキッチンは、丸亀でも苦労したが、広島ではすぐに固まったが
営業が弱く、蔭木くんもお手上げの状態。
福久君もお手上げ・・。

もう、潰すしかなかった、。

2年目に福久君が抜けて、河本君が配属。
すこしたって、日報に、ぐだぐたと、キッチンのリーダーが
文句を書いていた。
ぼくは、コメントで、
「こんなことも、できないのはなぜか?」
と、書いた。そのコメントを読み、メンバーは激怒し
5人中3人が、突然辞めた。まあ。やる気が無いのか、向いていないのか

大川原さんから常々、生産性を上げろ、ランチで時間使いすぎ
と、言われていた。
社員の河本は
「店長があんなことを書くからですよ、頭下げて謝ってください、
今なら、戻りますよ・・・」

ぼくは、
「 そんなことはしない、血を吐くまで、キッチンをやり直す、辞めてくれて
ありがとうだよ、助かったよ!」

そんな話を聞いていたフロアーの市川さんは
「店長、あの人たちは止めないでください、辞めたほうがいいです、
私たちフロアーのメンバーが交代でキッチンを勉強してやりますから
まかせてください・・・」

フロアーも人が溢れて入れないこともあり、
年収の壁もあり、悩んでいた。
ぼくは、素直に、大川原さんから、労働時間の適正化でランチについて
問題とされていたことを言った。

その件に関しても、労働時間の適正化について納得してくれ
よりシビアなラインでも納得してくれた、
子供が小さい、保育所に預けてるひとが多数だったが
市川さんは、そういうときも互いに面倒を見て、フォローし
休みをかわりにでる仕組みを作ってくれた。

市川さんは僕にとっては恩人ともいえるひとだった。
最初、立ち止まって会釈 をなかなかしなかった。
そういうところは、きちんと、福久が見ていた。
なんども注意して、
「 基本動作、マニュアルどうりにやることは大事なんです。
もし、ぼくと店長が替わって、他の社員が来ても、
マニュアルを守っていれば、文句のつけようがないのですよ」
と、封じ込めるように、市川さんを納得させた。
市川さんは、西宮オープンのときも、ヘルプとして
ひと月間の訓練のトレーナーとして派遣したのだが、
帰ってきて、教える方の大変さをわかってくれていた。

小笹さんは、意識も高く、まじめであった、
納得できないことがあれば、どんどん言うタイプ。
あるとき、社員不在時に、駐車場で車がとなり壁を潰し、
いち早く、となりの会社に謝罪にいった。
たまたま、本部長が臨店してきて、その対応にいたく感心していた。

91年92年93年とやがて、ガスト転換で
この人たちも結局辞めてしまうのだが、
ぼくにとっては、思い出深い、ありがたい存在の人たちだった。

92年の春先に、ぼくはまた、恋をしてしまうのだが、
そのはなしは次ということで、・・。













今はなき(旧)すかいらーく、その会社にぼくは費やした時間と情熱を思い出させずにいられない。

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