53. いよいよ オープンする伊丹瑞穂店

新店を担当する上で、自分なりの目標をたて、
FKともに、マニュアルを遵守する、身だしなみ基本ルールの徹底であった。
フロアーの髪型は統一し、茶髪は採用しない、
5分前出勤など、広島や四国でえんえんやってきたことを再度行い、
とくに、フロアーでは、案内のこだわりであった。
お客さんがきたら、どこでお迎えするか、笑顔か
ようこその表現である。

フロアーのランチは何人か採用できたが、オープン前に訓練中
トラブルが何回か起きた。
あまりにも丁寧な用語と、動作で、主婦が2人、ついて行けない、と、辞めた、
そのうち1人は、旦那がクレームの電話を入れてきて、さんざん文句をいってきた。
「おまえら、俺が店に行ったら、そこまで、やるんやろうな!」
その主婦は焼き肉屋を辞めて、こちらにきたのに、こんなのできない、
と、ぼくは、そうですか、といって、電話を切った。
フリーターの女の子が居て、中途半端な髪型で、長い髪のひとはシニヨンに
統一と、いうルールを作っていたが、其の女の子だけ、なんで注意しないのか?と、また別の主婦がかみついた、それで、また辞めた。
しかし、その後、其のフリーターの女の子は、責任を感じ、ばっさり切ってきた。
それを、見て、社員と驚いたのを憶えている。
結局、子供が小学校に上がるまで入れないひとと、Kさん、だけになってしまった。
キッチンもフロアーも十分な訓練も間に合わないまま
オープンが近づいてきた。訓練以外にはやることはたくさんある。
なるべく、新人たちのバイトをその訓練以外に仕事をさせて、なじむようにした。
食器が来てかたづけたり、さまざまなことがある、

思い出すのは、オープン前に、フロアーの女の子を集めて、
社員の福久が、演説をぶったことだ。
彼は、若いのに、ひとに強かった、今までに無いタイプの社員だった。

山田プロモーターは最初の店でもあり混乱気味であった。
ぼくは、オープン前に訓練や準備で疲れ果て、

オープンの日に、寝坊をした。
本当に情けないことだったが、朝一番で僕が鍵を開ける必要は無く
プロモーターが開けてくれたらよかったのだが、
スーパーバイザーは、それを言って、弁護してくれた。

セレモニーがオープン前日にあり、
オーナーや、会社の偉いさんが来て、ぼくは、今回は店長でフロアーを担当。
思えば、過去に、広島や四国ではサーロインを焼いていた。

そして、オープンの日。
福久はラストなのに、お昼から出てきていた。もう、声がでなくなっていた。

部長から、「おまえたちは3人でたちあげろ」
という、むごい宣言をよそに
数々の自主的なヘルプたちが来てくれた。

なかでも、わざわざ、松山から4人、大学生が、自分たちがオープンで世話になったというために、春休み来てくれた、近隣の宿をとり、
キッチンにはいってもらった。
そして、観音寺の大倉くんも、わざわざ、ヘルプに来たいと
来てくれた。

オープンの日はキッチンの真ん中でしゃっぷは
大角さんであった、僕はフロアー。
まさに、栗林公園の再現であった。
「おい、おさたにーー」
と呼ばず、
細かいだめ出しを店長であるぼくに、言い続けた。

戦争のようなオープンの日は、999名の客数であった。

何は何だかわからないまま、オープンの日は終わった。






今はなき(旧)すかいらーく、その会社にぼくは費やした時間と情熱を思い出させずにいられない。

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