54. 伊丹瑞穂店 06

オープンしての頃はお祭りのようで、いろんなヘルプもあり、知らないうちに
月日が過ぎる。
無断欠勤や、遅刻にカンしては、ルールを作り、当日の無断欠勤は、翌日の
緊急であったことの連絡が無ければ辞めてもらうことにした。
やはり、キッチンがどんどん、来なくなったり、辞めた。
よくよく考えてみると、新店のキッチンは、地獄。
四国でも広島でも同じ。
要するに、バイトで手伝い気分で来てるのに
いきなり、作れやれ、基本はどうだとか、それに忙しい、
考えれば辞めるに決まってる。
早く憶えろのようなところもあり、だから、仕事の説明では
簡単な調理です、調理補助です、
と、いうのは、全くの詭弁、
冷静に考えれば辞めるのは当然。
オープン前に、丁寧に教えても、オープン後のラッシュで潰される。

キッチンがどんどん辞める、
蔭木くんも、まいっていた、
何よりも参っていたのが、キッチンのランチのおばさんが、覚えが悪く
動きも悪く、どうしようもなかった。
しかし、フロアーは、ほとんど、辞めなかった。
これは、福久君の人間性と努力によるものだった。
彼には学ぶべきところが多く、懐は深く、決して感情で怒らなかった。

ある女の子が、フロアーもできて、キッチンがひとがいないので
そちらもしてもらい、よく、動いてくれたのですが
学校が遠く、結局、辞めることとなった。
それでも、福久君は、辞める人間にも丁寧に接し、最後、話もしていた。
「店長は、辞めるひとには冷たいんですね・・」
と、福久君はぼくにいった、
ぼくは、答える余裕すらもなく、いままで、さんざん、新店で辞めていかれるのを
見ていたので、辞めるのは当然だと受け止めていたし、
そこまで、構うことはない、と思っていた。

数ヶ月経って、あるときなぜか、福久君は
「店長が辞めるひとに冷たいのはわかりました」といってきた。
それでも、ぼくはある程度貢献してくれたひとには、必ず
送別会や飲みに連れて行った。

ほとんど、感情で怒らない福久君を見て、ぼくもそうあろうと
努力していたが、福久君が、数年後店長になり、2店目の須磨で
怒り狂い、バイトの女の子の胸ぐらを掴んだ、と、聞いた。
ぼくは、ああ、なんで、そういう風になったのか、
そのときは哀しかった。

オープンしたのが春で、春休みの松山の大学生も帰り
ヘルプの大倉も帰り、福久君の友人のヘルプもよく来てくれたが
どんどん、3人でやるようになり、
平日、ランチのフロアーが人が居ず、どうしても休みが取れない日が続いた。
ランチとナイトが、社員ひとりでスケジュールが引けないと
もう1人が休めない、
ヘルプが来て休めるようではだめなのである。

副店長研修があり、それにも蔭木君は参加できなかった。
ぼくは、事業部から放置されていたので、その研修会に行けるわけがない
と、無視をしていた。
当日、案の定、大角SVが、店に電話してきて、怒られた、
何よりも、蔭木くんのことを思えば、反省しきりだった。

なんとか、福久くんと蔭木くんを一日でも休ませようとしていたが
ぼくは、5月まで休めなかった。
「店長、いい加減、休んで下さい」
福久くんが、僕に言ってきた。
それでも、休まないので、
フロアーの田辺さんという子に
「この土曜日、わたしが出ますから、休んで下さい」
と、言われた、たぶん、福久君が根回しをして、そういわせてのだろうが
ぼくは、有り難く、休むことにした、
まともに休めたのは5月のはじめだった、二月から休みは亡かった。
このときは、完全にぼくは、仕事でうつになりかけていた。

安定しないまま、どんどん辞めてゆくひとと、残るひとで店は別れた。





今はなき(旧)すかいらーく、その会社にぼくは費やした時間と情熱を思い出させずにいられない。

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54. 伊丹瑞穂店 06