ぼくはめげることなく、1人で開店準備を2月13日から始めていた、オープンは
3月10日日曜日。
社員とプロモーターと部長の顔合わせがあった。
プロモーターは、あの山田さんだった。
やっと、店長を卒業した関西一期。芦屋三宮で記録的な売り上げを達成し
徳島佐古をオープンさせ、成功させた。
2番手、キッチンの社員は、蔭木くん、3番手は福久君。どちらも仕事ができる、
しかし、3人でやれ、という部長から野命令、
広島でも四国でも、6人で社員でオープンし、落ち着いたら、3人でやるのに
最初から。3人!!!
ぼくは、驚きながら、おそらく、誰かが倒れると思った。
部長は
「それから、三ヶ月は顔を誰も出さないから・・」
「なんでですか?」
「そのほうが安定するのがはやい、実験するんだよ、他の事業部で
やってるんだ・・・」

またもや、僕に難題を振りかけてくる。
「それから、2週間でプロモーターは抜けますから、姫路の新店があるから・・」

腹をくくるしかなかった。

社員のモチベーションアップをどうするか、悩んだ。

彼らに店でひっそりと、告げた。
「残業は全部つけてください、オープン準備でも・・」

ぼくは、それしかないと思った、基本、オープン前の残業やその他のラインでは
残業をつけてくれない。広島でも思い起こせば、タイムカードを店長のまで
破り捨てたこともある。

しかしだ、あとで聞いたが、残業をつけたりつけさせると
暗黙の評価で、出世はできない、そう人事は判断する、裏話を聞いた。
だから、このあと、いろんなことがあるのだが、
辞める前に組み合いのリーダーをしていたときに
社員の奥さん連中に、必ず、出勤退勤の時間を確認しておいてください。
なにか、合ったときの備えをしてください、と、バスの中でアナウンスした。
そして、ぼくの予言どうり、2人の店長が過労死をしたのであった。
中島さんの奥さんは、そして、中島さんはよく戦った。

ぼくは、自らの責任で、残業をつけて、給与をたのしみにしよう。
安定する店にするために・・。
店ができるまえに、予兆すべきことだった。

ぼくが今まで経験した広島四国のつらい日々を
またしても繰り返すのであった。しかし、ぼくはやる気満々であった。






今はなき(旧)すかいらーく、その会社にぼくは費やした時間と情熱を思い出させずにいられない。

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50. 伊丹瑞穂店 開店準備 02