51. 伊丹瑞穂店 開店準備 03

研修生のときの伊丹にかえるとは、思わなかった。
父親も本社が伊丹にあり、高松の工場から同じ頃
帰還していた。伊丹は工場が多く、中でも三菱電機があり、その総合研究所
があり、なんと、そこには母方のいとこが働いており、
しかも、所長であった、彼は東京大学の理系卒業で
何かとあれば、母に比較されていたので、
こいこい、家に来い、といわれても、行かなかった、
と、いうより、行けなかった。

瑞穂のまわりは田んぼばかりだった。
あの伊丹桜台もそうだった。まわりは田んぼ。
瑞穂自体も田んぼを埋めて建てていた。
ぼくは、回転かんばんが取り付けられるのを見ていた。
まだ、店はできておらず、中には入れないので
会館で面接をしていた。

伊丹桜台店は、店長があの持て持ての斉藤さんだった。
ぼくが居た頃のひとはほとんど辞めていた、

斉藤さんの前があの今津さんで、当時、社員をなしにして
店長をひとりでおこなう、ワンエムというのをやり始めていた。
いまでこそ、店長一人は当たり前であろうけど、
1990年当時は、みんな、できないこと、と思っていた。
今津さんは、結果、いろんなごたごたをおこし、
辞めることとなった、
やんきーたちがくると、おにぎりを握ってやったり、
満席で座らせて、やりたい放題していた。
そこで、斉藤さんに店長がかわり、
とんでもないことがおきた。

其のヤンキーは伊丹尼崎でも有名な悪で
斉藤店長の顔に殴りかかり、顔面を強打し
倒れ込んだ斉藤さんは顔と眉間を何針も縫うこととなった。
警察も来て、刑事事件となった。

しかし、恐るべきは警察で、
告訴を取り下げて、斉藤さんにも落ち度があるといいだした。
弁護士が出てきたりしたが、結果釈放。
しかし、やはり、相当な悪で、171号線を暴走し、
死亡したとのこと、

そういうことがあったので、部長はオープン前に
警察に挨拶にゆくぞ、と、
ぼくは、お食事券をたんまり用意して挨拶に行った。
やはり、警部は汚職券を喜んでいた。
でも、こちらとしては警察官が私服でもご飯を食べにきてくれるのなら
喜ばしいこと、
現にオープンして、警部はきてくれた、
「おい、店長、こいつらにも、あれ、あれ」
といわれ、慌てて汚職券を渡した。

オープン前にやる、社員たちとの激励会はなかった。
山田プロモーターはやらなかった。

オープン前に面接をするのはたいへんで、
春ということもあり、どんどん面接にきてくれた。
テーブルにそれぞれ座らせて面接するのだが
もう、だんだんと、誰が誰であるかわからなくなり、
採用かどうか、保留かどうか、
頭を悩ませた。
不採用は、福久くんに電話させた、
ぶつぶついいながら、何十人も電話してくれた。

そして、採用のひとを決め
一期メンバーとして、2/28にオリエンテーションをし
3/3 二期メンバーオリエンテーションを実施し、
それぞれ、準社員訓練を行った。
実地店舗である伊丹桜台に当初いっていたのだが
訓練を見込んで斉藤さんはひとを減らしていて
社員が、営業しまくりで訓練になりません、と、僕に文句を
いってきたので、
それなら、もういかないでおこう。
山田プロモーターの提案で、
店で、シュミレーションをして、お客さん役にも家族で
呼んでもらい、実施した。
これはいいアイデアと、思いやってると、
「何をやってるのか??」
怖い目つきで、あの鈴木OMがやってきた。
説明をすると、
嫌な顔をして、去って行った。
食材が無駄だ、といいたかっただろう。

頭がいたい、採用できなかったのが
キッチンのナイトと、ランチのフロアー、
やはり、瑞穂ではえんえん其の時間は欠員になる運命にあった。








今はなき(旧)すかいらーく、その会社にぼくは費やした時間と情熱を思い出させずにいられない。

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