30.  丸亀の戦いが

原田君という、ホテルでコックをしていた男の子がメインになり、
ディナーと、ナイトのキッチンは安定してた。
ぼくは、オープンから数ヶ月は朝からランチスープを作り、延々と
休みまもなく、休憩もできず、しかし、広島五日市と違って、さほどの売あげもなく持久戦というやつだった。
ぼくは休みが取ることができず、持病が悪化していった。
ストレスなどにより、アトピー性皮膚炎がひどくなり、医者もちかくになく
松田店長が見るに見かねて、アイドルタイムに少しはなれたところに
専門医を見つけて、いくと、包帯を巻かれ、とんでもない状態であった。

プロモーターはほとんど営業や訓練もするまもなく、
年明けに、観音寺店がオープンし、F君と、O君、E君の三人が抜かれて
余裕ができた、屋島にいた、秋吉君やたおだくんが異動してきた。
採用できないということで、社員営業であった、
担当SVは、既に丸さんは人事に異動し、あのもりてんと、三国にいた木戸さんがなっていた、オープンにはもりてんも木戸さんも来ていたが、
ヘルプもかなりきていたので、営業は楽だった。
問題は、ヘルプや事業部のひとが去ってあとなのだ、
広島五日市では、ほとんどヘルプもなしで、売れて大変であったが
今度は教えるべきひともいないまま、オープン。
数少ない、キッチンのディナーメンバーもなぜか、またもや
どんどん、辞めていった、
店の営業、オペレーション(ひとの動き方)などは、松田店長は確固たる考えをもっており、屋島でも100名(1H)で5時間も6時間も回していた。
1時間あたりの客数で、限界といわれるのが100名。
120名であっても、次の時間帯が60名であったならば、たいてい、つぶれてる
パターンが大きい。松田さんは、7枚伝票というものを考えだし
いつもいつも、どの店もつぶれていたキッチンをどうすればまわせるか
を考え、実践していた。
お客さんはつねにいきなり来る、たいてい、時間は集中する。
売り上げが欲しいので、できるだけ、お客さんをいれる。
問題は、料理をだせるかどうかであり、そこもオーダーを入れるだけいれようとしパンクし、出せなくなる。
15分提供ルールというものがあり、しかし、パンクして出せなくなると
30分40分となる。ぼくが、入社時、伊丹桜台でいつもこれでやられていた。
7枚伝票というのは、7枚しか伝票を入れない、あとは寝かしておくのだ
一つ一つにかかる調理時間は5分から10分もない
一つのテーブルの伝票にこだわり、品質にもこだわり
一つの伝票を完成させたら、次の伝票を入れる。この繰り返し
作業能率も上がり、エリアも強くなってゆく、

思い出すのは、オープンして2週間ほどの正月。
いきなり、ラッシュに成り、もう20枚ほどの伝票がたまり。
もう、だめだ、と、思ったとき、
「大丈夫や、ちゃんとでるから、ええなあ!」
と、松田店長がデシャップを仕出し、
予言どうり、どんどん料理はでた。

松田店長は、ひとにも強かった。年齢が上のせいもあるが、
だれしも押さえ込めるひとだった。みんな、言うことは納得するのだ。
しかも、仕事は、営業はあまりしない。
松田スタイルというものがあり、みんな、それをまねようとしたが
みんな、失敗する。
しかし、仕事。営業はあまりはいらない。
だから、えんえん、ぼくはキッチンから離れることができないのであった。

ある朝、部長があの伊東本部長を連れて視察に来た。
ぼくは、相変わらず、一人営業で、たまたま、10時過ぎにオーダーが
続いた。
あのときのことは30数年前でも憶えてる。
オーダーがBLTサンドと、キノコ雑炊だった。
BLTのレタスもなく、トマトもなく、きって、キノコ雑炊の、椎茸カットもなく
ようするに、ほとんどのものがなく、オーダーがはいって、ひたすら食材を
取りに行き、まな板でカットし、となると、
そのへんがちらかりまくった。もう、ぼろぼろ。
そのぼろぼろのときに、伊東本部長がきた。
「あれは、なんだ、整理整頓もできないのか、なんだ、あれは!」
と、激怒し、部長に、なんで、あいつが、新店のキッチンのあたまか、
となり、まああ、そういわれればそうだが
部長は本部長に怒られたのだろう。

翌日だ、嫌みったらしさを残しながら、部長は
僕の後ろに何時間も張り付いて
作業習慣を改めさせようとしていた。
僕は、頭にきて、なんですか!と、いうと
消えていった。ああ、何事も失言。
またしても反抗的な態度を取ってしまった





今はなき(旧)すかいらーく、その会社にぼくは費やした時間と情熱を思い出させずにいられない。

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