36. 丸亀リターン01

1988年から1991年までは僕にとっては激動期であった。
丸亀でオープンで半年、そのあと、社員K失踪で栗林に半年
ほぼ一年で丸亀に戻り、丸亀も実はこのあといろいろあるが半年しかいない。
そして、観音寺に半年いることになる。
店長になってユニホームも代わり、何しろ、交通費を使って神戸まで店長会議にいけるので長距離恋愛の交通費が助かった。
それが嬉しかった。
丸亀は、さすが松田店長が安定店舗にしていた。人に強い松田さんの実力だった。
あの看護婦を棒に振って入った今田さんはFKランチナイトフル活動で200時間(月間)
でがんばっており、年商1億くらいで、社員三人なら、できるバイトが数人居るだけで
回せる。しかし、商盛期は絶対人数が必要なシステムだったので、まわらない。
ぼくが教えたメンバーも残っており、やりやすい店であった。
問題は、食材のロス率だった。
事業部でワースト1か2の食材ロスが出ていた。
松田さんはいつも先の先を考えていて、バイトで運営する仕組み作りを考えていて
一番の管理として、食材の衛生メンのために、期限切れの食材の廃棄を徹底していた。
売り上げが低いので、すこしでも廃棄が出るとロス率、ロス金額に響きやすい。
この問題について、まず取り組んだ、数ヶ月でさまざまなことをし
改善し、店長会議で成果発表をするまでになった。
店長になり、一番大変なのは給与が実質下がるということ、
4等級店長手当は5000円だった。前の24時間の栗林では
深夜手当、加算手当、残業などがあったが、丸亀は安定していて残業はほぼゼロ。
だから、給与が減る。ボーナスは若干増えるが、

社員は、2番手に観音寺からFくん、と、松尾くんが三番。
この松尾くんが相当変わったやつだった。
すかいらーくの社員特有のパチンコ依存症であった、
彼女もいず、ひたすらパチンコと、少年ジャンプを愛読するやつで
大学は8年もいったそうだ、しかも、彼の部屋はアパートの隣。

たまに、丸亀で忙しくなると、となりのパチンコ屋に朝から晩まで休みの日は
いるので、店内アナウンスで読み戻してもらう。ラッシュが終わると再び台にもどる。

あるとき、丸亀のどっかのホールでネズミ講で有名なグループで集会があり、
そのあと、100人近くが、なんと押し寄せた。
フロアー一人キッチン一人しかいないときに、
電話しまくって人を集める時間も無く、またもやパチンコ屋に呼び出し
本当に助かった。
この前後から、そういう団体が現れ始めた。
なにがたいへんかというと、テーブルは異動する、事務所のように動く、
全員一人づつ会計。そのころ携帯もないので、公衆電話を使いまくる、
10円両替を何度も言う。なにしろ、フロアーの雰囲気が変わってしまうのだ。
本当に、いやな団体であった。

店長になり、目標を達成しても、彼女とは結婚できぬままであった。
なにしろ、長距離恋愛で毎月の安月給は使い果たしており、
やっと、貯金を初めて、50万ほど貯めたところで、店長になり
毎月赤字になりそうなくらいであった、貯金も止まってしまった。

店のことでも頭がいっぱいで、余裕もなく、
つきあってもう4年目になろうとしていた。

そんなとき、年末の店長会議がクリスマスイブにあり、神戸に帰った。
会議が終わった、
年末年始のスケジュール確認というのがあり、木戸SVがみて
「これはあかんな、やばいな・・」
と、いわれ、たぶん、そうなると思っていたが、なにしろ、人が取れない香川丸亀
結果、ヘルプをもらうことと、短期でも採用することで話がついた。
そのことでぼくは、頭がいっぱいだった。

せっかく、クリスマスイブに彼女とデートなんだが
ぼくは、そんな気になれず、彼女とデートを断り、車を降りてもらい、
四国へ帰った。

ひどいことをした。そのことから大変なことがおきてゆく・・。






今はなき(旧)すかいらーく、その会社にぼくは費やした時間と情熱を思い出させずにいられない。

注意、このページはすかいらーく本部さま、会社さまとなんら関係のあるものではありません、
問題のあるかたはメールでおしらせください。osatani@osatani.com