31. 丸亀 ランチ安定せず 1988年頃

ぼくが在籍していた頃、社員の退社率はすごく、70%の人間は数年で辞めていった。同期で入社したものもどんどん辞めていった。
この頃、同期の西川という中のよかったものが
広島から実家に戻り、深夜勤務や早朝や、そういう勤務で父親から
いつまで、そんな仕事してるんだ、
騙されると思って、この会社の面接を受けろ、
といわれ、彼は面接を受けに行った、半信半疑で
まあ、彼は、そのとき、既存店で出来の悪い店長の下で悩んでいたし
やる気も失せていたのだろう、
その面接の人事の人に、
「あなたは、いまのすかいらーくで、何を学び、何ができるようになりましたか?」と、質問され。
西川は無言だったという、答えを返せなかった。意気のいい新卒でなく
もう3.4年働いたあとの面接はきつい。
おやの関連する会社だったので、その面接も仕込まれていたのだろう、
でも、彼は、そういわれて、今まで、自分は何をやっていたのか、
呆然として、すかいらーくを辞めた。
辞めると、決めてから、そういう話をぼくにしてきた。
ぼくは、入社して数年間は辞めよう辞めようと、悩んでいた。
つまらないことばかり言われるし、
しかし、西川は、「そういうことは考えるな、」と、諫めてくれた。

新店の連続と、遠距離恋愛と、自分の体調の悪さと
問題や壁が多くても、なんとか、乗り越えようとし
辞めよう、とは思わなくなっていた、
しかし、西川が突然辞めて、相当ショックだった。
彼が辞めて、数年たち、店に電話あっても、でれなかった、
それっきりであった。
数多くの人間が辞めていった、よく言われる、使い捨てのような感じだ。
若い人間に責任を押しつけて店を運営させて、利益を上げる。
いたって、せこい話だ。

しかし、ぼくら新卒は他の会社も他の世間様を知らない。
ぼくらは自虐的に、「すかいらーく馬鹿」と、よんでいたわ

でも、丸亀の二回目のリベンジと寺坂さんに揶揄されても
意識を高くもち、新天地でがんばっていたんだ。


相変わらず。毎朝8時に店にいき、ランチスープを作り、スタンバイをし
ランチ営業をFKで社員で何人かで行い、
三人体制に移行できぬままでいた、一人残った大前さんという
おばちゃんも、全然仕事を覚えら得ないでいたが、なんとか
根性で続いていた・・。

「たいへーんやあ、天皇がシンダでデー」
この大前さんの下品な叫び声で、僕の中の昭和の時代が終わり
平成になろうとしていた。
ディナーとナイトは安定していたので、ぼくは残業せずに18時か20時にはすぐに上がれた、岡見くんという社員と、晩飯をよく食いにいったが
おもしろく気のあうひとだった。
あの東店長が人事にいき、新卒で同志社だったので、
喜んで入社させたやつだったが・・。

ナイトの主婦がランチに一人かわり、それから忘れもしない
あの今田さんという看護学生を春休み限定で採用し
ぼくらは、なんで、あんな短期を採用するのか、とぼやいていた。
日曜日のモーニングに至っては、昼間で準社は誰も居ず
社員三人でなんとかスタンバイし、しかし、田舎なので
お客さんも一人もこない、三人でフロアーで
お客さんのようなふりをしてモーニングを食べようということで
さくらになり、座っていた。
霧が出ていた、
10時過ぎに自転車を漕ぐ、今田さんが遠く田んぼのあぜ道を
走ってくる。
「ああ、貴重なバイトさんがくるぞ!!」
まるで、希望の星が自転車で来るようだった

ぼくらは客席から彼女が来るのを見ていた。
今田さんは、看護学生の最後の春休み、他の仕事もしてみたいと
短期で採用、松田店長はあまりにも元気なので採用したとのこと。

それから、ランチにも入りナイトもはいり店は今田さんで安定。
フロアーもこれも看護学生2人の頭のいい可愛い子が来て
すっかり、雰囲気も明るくなり、春の採用もできて
安定してきた。


ああ、やっと、なんとかなるなあ、と、思っていたところ
今田さんの母親と、看護学校の先生が突然、
店を訪ねてきた。
ぼくは、フロアーの小店舗で対応した。
話によると、せっかく、看護師の試験も合格したのに、
看護師にならない、という。
ぼくはまったく、そういう話を聞いていなかったので
驚きながら・・。
「あの、男がいるんですかね?」
と、聞いてきた。
ぼくは、知りません、いないと思います。
と、答え。
今田さんのことですから、自分で決めたんだと思います。
とやかく言う立場ではありません、と、答えた。
そして、ここで一年バイトすると、いったとか・・。

ぼくはよくわからないまま、店長に報告し、今田さん本人も
事情を聞くと、看護師の仕事に疑問を持ち、自分には向いてない
とのことをいいだし、こちらの仕事のほうが好きです。
と、言う話だった。
とにかく、店にとっては有り難いが、ぼくはもう一度考え直せ
看護師のほうがいい、といったが、聞く耳を持たないようだった。

香川の出店は観音寺で終わってしまい。
今度は、徳島佐古という店がオープンし、店長は関西一期の
三宮から山田店長が選ばれ、遠隔地孤立店舗なので
社員も多数いき、ぼくも休みを潰して二回もヘルプにいった。
売れに売れていた、

そこにヘルプにいった、栗林公園の社員Kが
翌日になっても店に出勤せず、
失踪したのだった・・。





今はなき(旧)すかいらーく、その会社にぼくは費やした時間と情熱を思い出させずにいられない。

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