52. 閑話休題 01.

いったい、何のために働くのか、目標は何か、目的は何か
自問自答することが多かった。
そんなつまらないことを考えずに適当にやればいいものを

店長になるため頑張っていたのが、いざなると、その後目標を失う。
入社前のパンフレットには、キャリアプランというのがあり、
研修をおこない、何年後にはどうなるこうなると、書いてあったが
あれも絵に描いたもちであった、
しかし、茅野社長は常に社員のことを考えていて、全国を事業部制にして
スタッフを増やすのは、ポストを増やす目的があったと聞いた。
事業部制のなかで、店舗を競い合わせ、その中でいい店といわれる
店をみんなのイメージのなかで作り上げてゆく手法はよくわかった。
料理粗利ロスはどうなのか、QSCのレベルはどうなのか、
そのころ、山陽事業部でトップとされていたのが、広島の観音本町店であった。柴田店長が常に評価され、会議では常に表彰されていた。
やはり、そう言う店は前年対比は客数売上げともにダントツであった。
みんなの前でべた褒めの店であったが、ぼくにとっても一つの目標の一つでもあった。事業部制は店長を教育するには抜群によかったと思う。
それが、その後、やはり、コスト削減のために、10数個あったのを7個の事業部に再編し、そして、事業部自体もガスト転換で、店同士のエリアというくくりはあるものの無くなった、
チェーンストアは、売り上げが右肩上がりでは、コストも吸収し
利益がどんどんである、増収増益である。
ぼくが、この新店を担当してるときは、バブルの真ん中であった、
しかし、この頃から、売り上げのUP分は、新規の店の売り上げであり
既存店の売り上げがどんどん下がってゆく、
まず、第一の失敗は、値上げであった。
1991年1992年当時は、すかいらーくは、デニーズとロイヤルと比べると
単価は安かった、お客さんはよくわかっていた、そのころの工藤事業本部長は、他社のひとから、なんで、値上げを為ないのか、と疑問をもたれていて
安易な方法でその後、売り上げを取るために値上げをして、もちろんそれは
お客さんの支持を失うことにもなった。
第二に、僕の意見であるが、ぼくが入社時、忘れもしない、ロイヤルホストが
札幌かどこかに、ホテル経営に乗りだし、我が社ではそういうことをしない、
といいながら、コンドミニアムをグアムに作り、様々な投資をし始めた。
基本的に経済が混乱してゆく、バブル前後、どの会社も投資をしたり、ゴルフ場やいろんなところに金をばらまく、おそらく、納税がいやだったのかもしれないが、経済や経理畑のスペシャリストにも恵まれなかったのではないだろうか、この当時、店の売り上げの運用で、利益が三倍にもなりますと、
経理の偉いさんが事業部の会議でぼくらに説明していた、ぼくは、なんと胡散臭い話だと思っていたら、その男は、持ち株会の金を勝手に流用し、警察のご用となったの憶えている。
そして、すかいらーくの創業横川四兄弟(1)の子弟は、絶対にまるすには入社させ得ない鉄則があった、それは、おそらく、派閥争いや同族経営の悪いところを知っていたからだろう、しかし、その子弟たちが何人かでかい商売をさせてもらい、失敗し、結果、まるすがその大赤字の穴埋めをする無様、
彼が競争し、まるすでいい意味で派閥争いをしたほうが、結果よかったのである、其の方が、やがて、まるすは翻弄されるように外資にかわれ、証券会社にかわれ、創業者は一掃され、債務を背負い、あとの社員たちが苦労することは無かったと思う、結果論であるが・・。

第三に、茅野社長たちは、店を出すときは慎重であった、賃料は絶対的な数字以上はださない、悪い立地をとらない。しかし、1999年以降、ガスト転換で味を絞めてローコストオペレーションで利益は出ると、店を出しまくった。
結果、閉店する、順調に伸びていたバーミアンは、伊東さんが育てたものであったが、分社をしてたのに統合させて、伊東さんが本体の社長になって、
結果、自らの手で惨敗を味わうのである。

第四に、社員は現場を踏んで結果を出さないと上に上がれない、しかし、上の仕事もやりがいのあるものではなく、ポストもすくない。この大量出店のときに
様々な中間管理者が激務と変容に耐えきれずやめてゆく、
伸びてゆく他社に転職するものが多く、モラルはダウンした。

自ら築きあげたもの、それを自ら破壊する。
新たなるものを築き上げるのは、相当困難である。
しかし、そういうことに執着しないのが横川兄弟のゼロからの挑戦であった。

1999年以降から時代は、ファミレスというなんでもあるものから
より専門性になり、グルメブームがおき、ラーメンブームもおきる、
それらを横目にマンモスは動けないのである。

第五に、あの時代に流行した、能力別評価方式の導入、
昔は5人で店を運営し、三人体制になり、1993年頃ツーM体制になり
やがて、ワンエム体制というものになった、ぼくは、いずれは、過労死がでると
思っていた、結果出て、それから、社会的な制裁と、ブラック企業という
レッテルを貼られる。この影響は大きかったと思う。
茅野社長なら絶対そういうことをおこさない、ぼくはそう思う。
社員で、コスト管理ができるものばかりを管理職にすればどうなるか、
数字ばかり見て、店長の顔はみない、まあ、数が多すぎて見れないだろうが
そもそも人事や組合はほんと、こういう危機管理が喪失していた。
あるとき、新店の激務で、社員が倒れ、入院した、ぼくは、自分の店でもないのに病院に飛んでゆき、親御さんともども見舞い、
こんなことになって、ほんとに残念です、と、いうと、
その親御さんは、ぼくに人事のかたですか?会社のかたですか?
と、聞いてきた、ぼくは、いや違います、と、答えると、
不思議な顔をされていた、すかさず、ぼくは担当上司が来ますと答え
スーパーバーイザーに連絡を入れた。
もう、そういうことの連続であった。

亡くなった店長2人のご冥福をお祈りします。(2)



創業横川四兄弟(1)
横川端・茅野亮・横川竟(きわむ)・横川紀夫の横川家
茅野亮氏のみが、茅野家に養子にだされていた。


過労死問題(2)
中島富雄さんは株式会社すかいらーくに25年間勤務、2004年8月15日、過労死によって48歳で他界されました。

契約店長で脳出血で過労死した前沢隆之さん(享年32)
月200時間を越える残業。しかも、契約社員であり、バイトの延長のひと、