組織がどんどんでかくなると、意思の疎通が困難になる。
現場の意見が上に届かない、会社としての方針が下まで届かない。
これは、よくないことで、組織の中の動脈硬化、もしくは組織疲労というもの
会社としてはどうしたいのか、
このバブル全盛期の1990年から1994年までのガスト転換まで
すかいらーくは試行錯誤しながら迷走飛行みたいになる。
なるというか、ぼくはそう感じた。

観音寺は、ひとも取れ、体質も僕のカラーになり、根本的な問題もクリアーし
4人体制から3人体制に8月で変わった、5月に来て三ヶ月で変わった。
前の店長もオープンの店長もできなかった、ぼろぼろになって一年すこし・・。
しかしだ、ぼくはこの頃気がつきはじめた、
問題の多い店ほどやりがいがあり、結果が出やすい、状態のいい店を
もらって、悪くするのは評判も落ちる、
しかし、観音寺を希望して覚悟を決めてきたから、できたのであって、
情熱や体力、気力は、どこまで維持できるかである。

岡見君が抜けて、ぼくと、パチンコ松尾と新卒の大倉との3人体制。
社員には厳しくした。
厳しく見せたのである、これができなかったから前はだめだったのだ。

行ってすぐに、衛生検査が入り、とんでもない点数だった。
自分たちで勝手にマニュアルを変えて、それで納得していた。
それがいい、といえば、そうなる、そういう店だった。
ぼくがいって、全部かえさせたが
またしてもぼくの天敵の部長は
「レベルを落としてやるんだったら、誰でもできるよ」
とか、いいだした。
どこか、前のレベルは高かったのか?と、ぼくは反論した。

社員の大倉に、次回絶対衛生検査は100点を狙え、
入り口から引き出し取手の拭き取り、ダスターまな板管理の徹底、
全部、きちんとしろ、厳命。
しかし、なかなか、こない、とうとう、ぼくは異動するのだが。
こなかったので、大倉に、絶対合格しろ、といった、
大倉は、必死になって、

「店長!97点ですよ!やりました」
と、わざわざ、電話をしてきた。

「そうか、よくやったな、おまえの数字やな、おまえの努力や!」
と、ぼくは褒めた、

6年後、ぼくは、佐伯部長とある店で話をしていた。
大倉の異動の話を聞いて、其の話になって
「大倉はおまえよりは上やな!」
こう言われた、そうか、ぼくが教えて育てた大倉は
ぼく以上にまでなっているのか、
しかし、そういう2人の歴史を知らず、ぼくを下目に見る部長に
頭にきていたのには間違えない、どこみてるねん、と

観音寺の暑い夏も終わろうとしていた、

秋になり、まだ、まだ、観音寺の話は続く・・・。
まだまだ、観音寺の話は続きます・・。






今はなき(旧)すかいらーく、その会社にぼくは費やした時間と情熱を思い出させずにいられない。

注意、このページはすかいらーく本部さま、会社さまとなんら関係のあるものではありません、
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46. 観音寺の暑い夏 6 1990年頃

46. 観音寺の暑い夏 6 1990年頃