もう、あれから28年も経つと思うと、時の流れの早さに驚くばかり、
当時のことをよく憶えていると自分ながらに併せて驚く、
すかいらーくが関西に出進して、6年目に僕は入り、
いわば、関西は序列というものがしっかりしていて
関西一期、二期、三期、と其のあとのような感じであった、
関西一期はすぐに店長になれるが、二期は5.6年かかり
三期は、もっとかかりだして、店が出始め、
僕がなる頃は5年か6年で店長になる、
新卒がほとんどで、中途は激務についてゆけず、辞めるのが多かった。新卒は世間を知らず当たり前のように思っていたから、辞めない。でも、75%の確率で5年前後で辞めていたようだ。社員の平均年齢も若く、みんな若かった。
本部や仕入れ関係の知識が必要な要職は、当初は引き抜きで
対処していたようだが、とりあえず、現場をきちんとこなした実績が無いと本部などにはいけないし、事業部スタッフにもなれない。
しかしだ、ここが一つの問題でもあったとおもう、
適材適所の人員配置なら、現場で実績踏まなくても、できる向いた仕事があるわけで、そこでまた仕事の幅を持たせられるのだから
という話がそれて、

当時、僕がいた観音寺店は町の中心地では合ったけれど
漁業や、農業がさかんであった。
店の中まで独特の肥やしのにおいがはいるほど、
当時、店の前は田んぼだった、のちにコンビニができるが

その中の農産物で有名なのは、香川レタスだった。
大野原や観音寺でもたくさんのレタスの畑があった、
当然、店はサラダを作るのにレタスを使う、段ボールを見て
産地を見て、笑った、観音寺のレタスだった。
しかしだ、痛みが酷く、半分も使えないのを送ってくる。
そのひどいレタスは半月ほど続いた。
ぼくは相当頭にきて、関西工場に電話すると、
「検収差違で廃棄分をロスであげてください」
と、いとも簡単に答えていた。

おい、待てよ、其のロスは誰が背負うのかという問題で無く、
なんで、そういうレタスを仕入れてるのか?
工場の係長と、納品する業者で、どうなってるのか?

ぼくは、考えた、悪いのを掴ませれてるんだ・・。
段ボールの中を見てないんだ、見て無くても、段ボールの下をみれば
わかる、痛んでるのは、水がでてるからだ。

自分の店の周りにある畑には、新鮮なレタスが栽培されて
店に来たら、痛んでる。高い高い送料を使い。

農家で採れたレタスを農協に納め、関西の中央市場に運んで
そこで、どっかの悪い八百屋が安く競り落とし、
確認作業しないすかいらーくに納品して、そこから
再び、トラックに乗り、再び瀬戸大橋を渡り、店に来て
わざわざ、交通費というコストでいたんだレタスが店に来る。

この図式は、ばかげている、一番いいのは、ぼくが農家の畑に
金を払い買いに行くことが一番だ。
でも、それはできないという、

ぼくは、工場のもっと上の、生産本部の取締本部長宛に
クレームを入れようと、日報に記入した。
いまのぼくなら、そんなことしないほうがいいよ、
工場や事業部を敵に回すから・・。
であるが、
あまりにもひどいレタスに頭が来て、書いた。

次の週に、本部から電話がきた、
事務の女の人で、
「生産本部長の伊東さんから電話です、どうぞ・・」
と、伊東さんから電話がきた。
ぼくは、あ、と思った、あの丸亀の朝のBLT事件、
あれで、ぼくは伊東さんにさんざん文句をつけられた
悪い記憶が蘇った。

しかし、伊東本部長は素直に辺境地のひら社員に
今後こういうことのないよう、指導します
と、約束してくれた。
ぼくは、また、後味の悪い感じを残してしまった。
観音寺のレタスは、輝いているはず、
そして、当分はきれいなレタスが納品されるようになり。
事業部のひとも、よく、言ってくれた、と喜んでくれた。
しかしだ!6年後、
このときから6年後、
また、再びひどいレタスを関西工場は送るのであった。
ぼくはもう、そのころ、大きな組織の一つの人間として
検収差違で全部あげて、ちかくの八百屋にレタスを
小口購入でかいにいくか、配達してもらった、
何回いっても、かわらない体質であると思ったからだ、

「そんなこと、どうでもいいよ」と思う自分。
「こういうことは、会社全体としてとらえなければならない」
と思う自分。
34歳の自分。
自分のモラルが落ちてゆくのは、なぜであったのか
まだまだ、観音寺の話は続きます・・。






今はなき(旧)すかいらーく、その会社にぼくは費やした時間と情熱を思い出させずにいられない。

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45. 観音寺の暑い夏 5 1990年頃