1993年の夏頃だったか、関西から若手社員が関東に異動があいついだ、
ガスト実験店にいかされるのであった。壮行会を神戸夢野でおこない、送り出した。
その頃から、エリア会議では、さまざまな取り組みや業務指示書やらができて、
まあ、それは、恐らく本部がいかに現場への徹底度が低いとかいうのであろうか、
エリアマネとの面接で決められた。ほとんど、人件費を削減、接客生産性のランクを
まもることばかりだった。店の経費をきちんとまもらないと、利益が確保できない、
すかいらーくは、末期的であったんだとおもう。
ファミレス全体がそうであり、その頃から、ラーメンブームやグルメブームがおき
本格的な味を追求するの傾向が増えた。
どの店長も、売り上げや客単価を伸ばすことより、落ち続ける客数に対して
いかに、無駄なくぎりぎりで時間を組むか、頭を悩めていた、
たとえば、2名を5名で打ったり、客数を多めに打ったり、無駄な努力をしていた。

とうとう、大川原さんから、とんでもない話が出てきた。
エリアのうち、数店を除き、ガスト転換を行う、
という話だった。要するにすかいらーくの看板を下ろすという衝撃的な話だ、

ぼくは、ショックで言葉がでなかった。ガストがどんなものか、わからないし
どうなるのか、不安であった。
まずは、社長や番場調理長の話など、全店長が本社に集められ
講話を聞かされ、構造的な改革をおこないますと、
話を聞いた。
日帰りでとてつもなく、疲れた。
ガストがどんなものか、見学をついでに、元イエスタディ武蔵野を見に行った。
店長がGパンで走り回っていた。あのイエスタディでジャケット着て
軽やかにサービスしていた憧れのイエスタディが、
客が呼んでも、少々お待ちください、順番に行きます、叫んでいた。

会場にゆくと、広島時代にぼくに菜箸でたたきのめしたあの、丸さんがいた。
人事部であった、ぼくに向かって
「ああ、あいたかったよ!中島!」
ああ、社員の名前も覚えられないのに人事ですか、そう心の中で思いつつ
笑顔であいさつした。そして、会場にはいると、広島から飛ばされた中島がいた、
すっかり、はげていた。頭を隠しながら、お久しぶりです!と、

ぼくは茅野社長が好きだった、尊敬していた。社長がやれというならやらないと
いけない、わざわざ、交通費を使って、集めて説明だ。

でも、ぼくがすかいらーくで、新店で、築き上げてきたいろんなものが
一気に壊れたのが、このガスト転換であった。

店に帰り、みんなに報告した。みんなは、ぼくが変わらず店長であることから
安心してる様子だった。でも、厳しい日々がまっていた・。

つづく・・。






今はなき(旧)すかいらーく、その会社にぼくは費やした時間と情熱を思い出させずにいられない。

注意、このページはすかいらーく本部さま、会社さまとなんら関係のあるものではありません、


72. 伊丹瑞穂  19