64. 伊丹瑞穂店  12

 来る日も来る日も店にゆき、だいたい、ぼくは、丸亀も観音寺もそして、この瑞穂も
必ず店から5分ほどのところにアパートを借りるようにしていた。
なんかあったときにすぐにこれるように、通勤時間を無駄にせぬように
瑞穂のときは、丁度時期がわるく、アパートが見つからず
少し離れたところに借りた。
二軒かりて、一つは福久君に借りておいた、
ぼくは、その後不動産屋から、店の近くにワンルームできる、そこがキャンセル
したので、どうか、と、聞いてきた。
一つ返事で、物件もみずに決めたが、酷いとこだった、新築ではあったが
窓がないのだ。
新店の激務さで、アパートは塵屋敷になり、踏み場もないようになった。
店が安定し、休みが取れるようになったが、掃除する気にもならない。
「何にもする気が起こらないのである」
そして、何もすることもないのである。

今まで、結婚を目標に頑張ったきた神戸の彼女とは別れ、、
四国の彼女は、もう、数ヶ月で音信不通になり、何ヶ月か目で、
会いに行っても、合ってもくれず、
もう、相当、落ち込んでいた。
「店長この頃、元気ないな・・・」
それが、みんなの合い言葉。
多趣味多彩な自分であったが、すかいらーくにはいり、
それどころではなくなり、というか、そういう時間がない。
余裕がないのであった。

洗濯物は実家の神戸に持って帰り、
おかんに洗ってもらっていた。それが、大変なことになっていた。
親父が高松で単身赴任中に、会社の寮で、ダニがわき、
実家を中継し、洗濯物に混じり、ぼくの塵屋敷にやってきた。

もともと、アレルギー体質である人間であったので、
そのダニが繁殖し、ぼくは、喘息になったのである。
それがなぜ、喘息になったか、わからず、
咳が止まらないので、2年目の夏に、とうとう、自宅療養になった。
しかしだ、自宅が原因なのに、余計悪くなる。
山下君という男の子のお母さんが、心配し、
わざわざ、来てくれて、点滴を打ってくれた。
夏。福久君は、ぼくが倒れたので、一人で店をやりくりしてくれた。

喘息になる前に、あるKさんに僕は恋をしたのだ、
彼女のひたむきさ、美しさに
Kさんは、オープンメンバーであった、実を言うと母子家庭で
相当お母さんが苦労して、父親は相当な借金を作り一人で逃げたという。
しかも、三人姉弟。
もう、それだけで、ぼくは参っていた。
そして、ぼくの制服のズボンがびりびりと裂けて、
Kさんが、縫ってくれたのだ。
「なんで、あんたが縫うのよ?」
お母さんはそういったそうだ。

そして、僕のアパートも塵屋敷を綺麗に掃除してくれた。
掃除してくれたのはいいが、ダニが、それで、余計に活発化し
ぼくの肺の奥まで侵入しだした。

必然的に、秋、ぼくは、再び、倒れた。

しかも連休明け、しかも、福久君が、結婚するので引っ越しする予定の日。
ぼくは、一晩中喘息がでて、自分で救急車を呼ぶ。

そして、伊丹市民病院で、ついたとたん、意識を失った。
あのときは、もう三途の川の手前までいって、
川の向こうから、看護婦さんが、手を振って、僕の名前を何回も何回も呼ぶ。

気がつくと、ICUのベッドで、看護師の皆さんが昼ご飯を食べてるときに
目が覚めた。
店ではとんでもないこととなり、福久君は引っ越しを延期し、
店からおかんに℡してもらった。
独身が入院するほど、情けないものはなく、歯磨き一本、スリッパひとつない
着の身着のままで入院。

情けなかった。

先生は女の先生で、ぼくと同じ、長谷だった。

とにかく、息ができるように、酸素マスクをつけ、点滴を二本も打ち
へろへろになりながら、耐えていた。

店のみんなや、福久君、大川原さんは病院に来た。
「あのときは、もう、おまえ、辞めるかもしれないと感じた」

なんで、みんなそんなことを言うのか、不思議だった。

次回に続く。






今はなき(旧)すかいらーく、その会社にぼくは費やした時間と情熱を思い出させずにいられない。

注意、このページはすかいらーく本部さま、会社さまとなんら関係のあるものではありません、

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