三宮から、新天地広島。そして再び新天地香川。
およそ、3年、足かけ4年の勤務が、新店舗であったのに
再び、新店舗に担当になった。
ぼくが入社した頃は、新店舗の店長になったあとは、評価をうけての
ことであるが、出世してゆくのであった。
ぼくを推薦したのは、木戸SVであったと、聞かされた、
あの部長は、当初は反対したらしい、まあ、ぼくが嫌いであったのだろう。
観音寺のあの退職させた女性が事業部にぼくのことでクレームをいれ
僕に内緒に、木戸SVは面会していたということ、戯言と、
あしらい、まったく、ぼくには最後まで言わなかった。
その店がよくならない原因をぼくが切ったので、よくやったと、思ったのか、
でも、それも木戸SVは、ぼくには何も言わなかった。
言葉を多く使わないのである。
ぼくの観音寺のマンションの部屋に勝手に社員に鍵を借りて
ぼくのレコードを聴いていて、
知らずにマンションに帰って、驚いたことがあった。
「こんな、レコードもっていても、針の製造はもうしないそうだ・・」

木戸さんは、寡黙であるが面白いひとだった。
しかし、事業部の慣例の本部出世のコースは、商品開発、
ぼくは、最後、木戸さんにお礼をいった。

「新店しんどいけど、がんばってな、おまえやったら、いい店できるよ」
そう、いいながら、去って行った。
愛車のZをかっ飛ばし、

ぼくは、29歳になったばかりだった。

ぼくは、新しい店を作ることで、どんな店にしたいか
そういうコンセプトをまとめて作り上げた。自分の店と言っても
チェーンストアであるがゆえ、自分たちが去ったあとにも
あとから来た社員にも、迷惑かからないように、
基本の大切さと、マニュアル遵守。それに関西にいたときには
痛感していた。躾 身だしなみ、
そんなことをワープロでまとめて、面接が何件かあり、
伊丹の労働福祉会館を借りていたので、
実家に帰ると、事業部の鈴木OMから電話があり
「実はぼくが最初にひとり面接していまして、もう、いわないでおこうと
思ったのですが、いっておきます、おさたにくんが昔つきあっていた人が
面接に来て、いろいろ話したのですが、やめておいたほうがいいとおもう。
いろんな社員のひとのこともなんでもかんでも話して・・」
「はあ、わかりました」
といいながら、ぼくは驚いていた。
すこし、たって、
昔の彼女から電話があった。
「店長の名前聞いて、驚いた。わたし、今度、結婚して尼崎に住むから
採用してほしい」
ぼくは、話を聞きながら、頭にきていた。
「そんなもん、採用できるわけないやろ・・」
「もう、わたし、全然気にしてないし、なんもおもわへんから・・」

「おまえな、ええかげんにせいよ、おまえはなんと言われてるのか、知ってるのか?」
泣き出して
「帰ってきたんやな・・」
「そうや、帰ってきたんや・・」
沈黙が流れ、電話を切った。

結局、僕と別れて、浮気していた元社員と結婚する。
僕は、そのときは切ないというより、運命の悲しさを思い、
そして、今、ぼくは、自分の悪かったことを理解できる。

ぼくは、新しい店で絶対に経験者を採用しないでおこうと決心していた。
ドリアの戦いで、広島であったように、
全部が新人で、あのオープン景気の戦争を乗り切ることで
伝説のオープンメンバーと、なり得て、いい経験がお互いに詰める、
そういうこだわりが僕の中で形成されていた。

彼女に愛想尽かされて、ぼくは再び、観音寺の彼女にも
愛想を尽かされる。これははやかった。
映画の男はつらいよ の寅さんの如くだ。

ぼくのすかいらーく人生は15年しかなかったが、
伊丹瑞穂にゆくまえぐらいが前半戦、

世話になった、ごうてんもやめ、西川もいなくなり
三好さんも、丸さんも、もりてんもいなくなり

そして、僕の店の担当は、あの!大角さんになったのだ。






今はなき(旧)すかいらーく、その会社にぼくは費やした時間と情熱を思い出させずにいられない。

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49. 伊丹瑞穂店 開店準備