井上さんが朝霧に引き抜かれ、井上さんのあとに、ごうてんの新店から社員が来た、一年先輩で
寺坂さんの同期の社員、新店ではフロアー担当で、ごうてんの店は不幸なことにがんがんメイン社員が異動して、斉藤さんは広島国泰寺のキッチン二番、これは三回目連続のキッチンリーダーで過酷人事。斉藤さんは広島出身であったが、西宮に彼女が居て、あちこちでおおもてであっ
た。上田さんは西宮にもどり、またしてもごうてんの店はたいへんなことに
その年から、三宮でぼくは彼女ができた。バイトには手を出さないつもりだったか、あとは見合いしかなかった。相手は学生女子大二年生。高校時代は国体にでるまでのスポーツ選手で大学でもスポーツ選手であった。家はたばこ屋で、春日野道のうえのほうに家はあった、できるだけ
店のメンバーには内緒にしていたが、井上さんがしゃべりなので、ばらしていただろう。
井上さんのように店のなかに喧嘩を彼女とすることがないように、えこひいきしないように
することが目的だった。休みの日は、彼女と会い、デートにいく。
自分のスポーツカーで、最初のデートは忘れもしない、大阪江坂のフォルクス1号店。
ここはサービスがよかった、いろんなとこのドライブして、他の店を研究する。
たいてい、このパターン、バイトとつきあい結婚する若い社員のパターン。ほぼ9割がそうであったが、離婚するやつも多かったし、なかにはフリンして結婚するものも、手を出すだけの顰蹙ものもいた。ぼくは、当初はそうでもなかったが、そのうちぞっこんになり、仲のいいカップルで
できるならば結婚したいとさえ思い始めた。
井上さんが去り、そのうち、店が改装することになった。
関西一号店の三国から始まり、店番号の若い順で536号の三宮も春まえに
改装のため、閉店した。
閉店するときに、打ち上げを近隣の焼き肉のわかまつで全員で参加することになり
盛り上がった。なかなか、全員でいけることはない。
ひそかに僕の横には彼女は座っていた。
三宮の有名な準社員のぜんさんも来ていた。
ぜんさんは、月水金の20から24時までフロアーにはいり、自分の仕事を終えてから
バイトに来ていた。そのうち、娘さんも来だして、
がんばるおとうさんであった、しかし、やはり、ぼくらは若造でぜんさんはかなり年上で
世間もわかり、フロアーのお客さんをよくわかっていた。
しかし、悪い癖があり、全部そうだったが、ひまになるとたばこを一本吸いに裏に消える。
これは、タバ休 というもので、これは井上さんとぼくが話し合い、全員タバ休禁止。
ぜんさんは晩ご飯食べる時間がないで、電話で自分の従業員食事を
オーダーし、作らせる習慣もあり、これもかってなので 禁止にした。
まあ、今考えると、年上の社会人を使う上で、井上さんとぼくは苦労していた。
話が戻ると、
焼き肉は、高い。しかし、かえり、高見店長は自分で全部だそうとした。
ぼくと先輩社員は焦り、いくらか出した、といっても、三等分はできなかった。
その金額は10数万。
よく、奥さんはお金を持たせたと思う。
そのあと、からおけにいき、高見店長は昴を歌った。
高見店長は尊敬する温和なかただったので、出世するだろうと、思っていた。
やはり、そのあと、現場を離れ、出世した。

改装中の三宮店では、改めて、従業員の訓練をすることになり、
フロアーは先輩社員、ぼくは、キッチンのランチを
他店ですることになった。
当時の改装のメインは、フロアーにあった、パフェやジュースを作るカウンターを
キッチンに入れて、フロアーはお客さんに対応できる人数を増やし、サービス力をup
させるためであった、卓割りオペレーションという厄介なやつでした。
すべて入店から退店まで同じひとが担当するということで
料理運びもそうであった。いままでは料理バックというポジションがあったのだが
それも無くした。

そこがぜんさんには悪いことをしたとおもう。

当初は、ぜんさんは自分の聞いたオーダーは自分で責任をもって運ぼうとした、
しかし、ホールには閉店準備してるバイトがいて、そのひとが運ぶのがルールであった。
その分、ホールの下げものや、やるべき仕事は前の作業としては
やるべきとがあり、先輩社員は、何度もぜんさんに注意して、運ぶな、といった。
それが、今度は運べ、という。真逆なことをいう。
会社の方針だから、仕方ないのですが。
当時、売れに売れていたすかいらーくのライバルは、常にロイヤルホストで
ここは、最初からぶれずに、一貫してフロアーは卓割りをしており、
まあ、ロイホは、キッチンにはコックがいたし、別れていた、ぼくらすかいらーくは
どっちもやることが必要で、急なラッシュでは、フロアーキッチンを何度も何度も往復し
作業をフォローしたものである。
そして、売れてる店には、必ずサンデーサンやさとのような競合店が店を出し
競争が激化していた。

ぼくは、梅田店の新店にランチメンバーとキッチン研修をしに
村田さんや竹内さんと仕事していた。
梅田のようなすごい立地に店を出す、これはすごいことだった。
そして、抜擢人事店長に、ぼくのフロアーの師匠戸城さんが、キッチン二番はは三国から徳丸さんが異動、
24時間営業だったので、10数人の社員、
ぼくはやはり、すごいな、と戸城さんを思ったのは、オープン前に相当な数のバイトパートの応募者がいたのですが、採用できる枠は決まっており、条件の悪いものやあわないと思われるひとは不採用。

これがかなりの数の不採用に成り。連絡がたいへんであった。

これで、不採用の人に、封書で通知を文書でおくり、封筒のなかにお詫びにせっせと
コーヒーサービス券を入れていた。
、これはなかなかできないと思った。というのは、不採用になったひともまた人が居なくなれば
採用できるかもしれないし、また、お客さんで来ていただくことがあるからだ・・。

やはり、梅田店はすごく、ランチの桁違いの忙しさと売り上げであった。

「井川さん!ランチスープがあと半分です!」

フロアーから声がかかる、もう10リッターのでかい寸胴が4本目である、

井川さんは三宮にも居て、ランチのキッチンの村田さんは
横目で見ていた。
「井川さん!味見した?本だし入れてないでしょ!!」
すかさず、村田さんに注意され、顰蹙を買う。
井川さんは以前にも同じ失敗をしていたのだ。

ゴールデンウィークまえに、改装がおわり、定位置の変更ややることが山のようにあり
キッチンはたいへんで、ひとりでやっていた、いつも貧乏くじをひくのはぼくだ。
そして、リニュアルオープン、フロアーの女の子のユニホームも新調し、クロスもいすもすべて
新しくなり、新店のようであった。
が、井上さんのあとがまの社員がキッチンに入りたがらず、フロアーで必死でまわすので

キッチンが大変なリニュアルなのに、日曜日などは料理提供時間が遅れだし、
パンクの連続であった。まあ、喫茶カウンターがキッチンに入った分、洗い場の顰蹙のトレンチ方式という厄介なもので、キッチンフロアーの人員配置のバランスが崩れ負担がキッチンにいったぶんもあるだろう。
高見店長は中番で、ぼくがラストのとき、必ず、昼過ぎに
「はやくきてくれーーー」と、店長の泣くような電話に起こされ
パンクしていたキッチンに飛び込むようになった。
リニュアルしてから、ずっと、キッチンはピーク時パンクしていたと思う。
こんなことではだめだ、と、ぼくはずっと思っていたが、らちがあかない、

そんなこんなで、あのごうてんがふらりと三宮にきた
「おさ、どおうや、あいつ(先輩社員)とのバトルはどうや?まあ、体力勝負でおまえのかちやな
、それから、僕の奥さんからの(山陽事業部の事務のバイトしてる)話やねんけど、
おまえ、
たいへんなことになってるぞ、なんでも広島五日市のキッチンの二番に名前があがってるぞ!」
ぼくは、驚いた。あちこちからその噂が僕に入り、
とうとう、尊敬する三次スーパーバーザーが、一枚の紙きれをもち
僕に会いにいた。

「あのね、こういう人事で君が広島に候補であがってるんだけど、チャンスだよ、しんどいけど
店長にはやくなるには、どうかな?いくかな?」

ぼくは、複雑な気持ちだった。このままパンクしてる三宮を離れるのも、しかし、知らない土地広島。広島には、国泰寺店がオープンし、そのあと、観音本町店が続いてオープン。
そして、そのあと、広島五日市と広島大芝店がほぼ同時にオープン、広島をドミナントで
ローカルチェーン店舗と、九州ロイヤルとの戦いが始まっていた。
ぼくは、考えさせてくださいといい。
一番の頭の痛いのは、彼女の存在だった。どういえばいいのか、理解しがたいもんだ
店長はしっており、先輩社員は、半笑いで、彼女どうっするの?と、これも嫌な感じだった。

ぼくは、その日に、彼女に説明した。
「おまえと結婚したいから、一人前の店長になりたいので、広島に行かせてくれ」
と、いうと、泣き出して、飛びついてきた。

それでなんかと、行く決心がつき、僕のあとがまは、五十嵐さんというひとで、
朝霧の母店からきた、中途入社であった、きたらさんが五十嵐は使える、仕事ができる
と、言っていた。そして数ヶ月して三宮の先輩社員は、朝霧に異動し、代わりに西宮から藤原という若手社員が来た。そして、先輩社員はいろいろ家庭でもあったらしく、朝霧にきちんといかないまま辞めてしまった。

ぼくと井上さんと高見店長の絶妙なバランスの三宮も、終わった。

佃1年半、三宮一年半、ほぼ3年が入社して過ぎていた。
21から24になっていた。
広島に家を探しにいった、なんせ、給与が安いのでできるだけ安い家賃のものを
楽々園の不動産屋で、現物をみないで決めてしまった。28000円であった・
ひどいとこだった。
帰りの新幹線で、三宮に来たときの書いた、三宮の悪いとこ表をみた。
何個、できたか、半数ぐらいであった。そのノートを新幹線で帰り忘れてしまった。

送別会があり、いやいや、彼女といった。送別会はぼくは実は嫌いなのである。

実は広島にその数ヶ月後、彼女と車で旅行にいっており、何度か、仲のいい山陽女子大のちかくにすんでいた西川のところにもいっていた。

「ここに、店ができるんだってさ」と西川はぼくにいい。
まさか、その店でぼくがゆくともおもわなかった。

最後、三宮の勤務が日曜日におわり、引っ越しの荷物、ほとんど少なかった。
家から出して、母親と彼女がいた。
ふと、母は、かわいそうに、といったのを憶えている。
彼女は必死に耐えていたようだ。

そして、彼女を家まで送っていき、お別れをした、何度も何度も泣いていたのを憶えている。
ぼくは、そして、ひたすら車を走らせ、広島に向かった。
学生の時、好きだった、ラジオを聞いてみようと思った、
受験勉強のときは寝ないようにラジオを聞く、日曜日の夜はぬかるみの世界。
しかし、相当その番組から離れていて、なにをいってるのか、わからなかった。
どんどん電波が聞こえなくなり、岡山にはいる、当時は山陽道は未完成で
わざわざ、山奥の中国縦貫道を使った。

そして、ぼくの三宮店時代は終わった。佃のことはとうに忘れていた。
やっていけるかどうか不安だった・

前に書いたが、最後にキッチンのリーダーの脇の言葉が頭をよぎり、
彼女のことが心配でたまらなかった。
思い起こせば、35年の前のことだった。

2018/04/12
わきくんと






今はなき(旧)すかいらーく、その会社にぼくは費やした時間と情熱を思い出させずにいられない。

アドレス引っ越しのお知らせ
ジオシティの閉鎖により、引っ越ししますので

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20. 三宮リニューアル。