offcourse-love 本文へジャンプ2011年2月22日 0:07:25
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 オフコースは再結成されない、
絶対に無理だといわれている。
しかし、ぼくはあきらめない。
必ずもう一度、年寄りオフコースを
みれることを・・。長七


ブログ

オフコース 伝説のグループ

オフコース。もう誰も語りはしない。
もう結成されることもない。 優しさの時代。愛の時代。 あの時代はどんどん遠く・・。


管理人のオフコースのブログ
最近更新していませんが・・

新田和長氏

この1989年の解散まじかのファンクラブの会報に
株式会社 ファンハウスの社長 新田氏が、オフコースとのであいを
書いている、

1969年新田氏は、東芝EMIに入社。新人Dとして、アーチストを探していた。

偶然、ラジオから流れた、ある番組のアマチュア特集の中の
一つの歌。

「ONE BOY」が流れてきた。

新田は、衝撃的な印象を受けた。

コーラスワークのすばらしさ、センスが抜群。
ボーカルの小田の声、

「 すごい! こいつにあってみたい!」

当時は、ジ・オフ・コースとして、アマチュアであり。
小田は東北大学、鈴木は東京電機大学、
音楽との両立で悩んでいたころ。

新田氏は、元元、リガニーズという
カレッジポップスの人気グループのメンバー


なんとか、小田らに会うことができた。
しかし、彼らのモラトリアム状況へのアドバイスも新田はうまくできず。
とりあえず、東芝と契約させ、
昔からある、レコード会社のやりかたで
なんとか、レコードをだそうと、レールにのせたのである。


群集の中で

小田、鈴木は、アマチュアのような音楽でない、プロとしてきちんと
やりたいと、そうねがっていた、
その歌は、歌手としてのもんであるからだ。

当時は、シングルで稼いで、LPを自分たちの好きな作品に仕上げるような感じであった。

外国のアーチストを参考例にし、試行錯誤をかさね、
新田氏の後輩、武藤氏とであい、初期のオフコースとしてやってゆく。

武藤氏は、ジャネットでうまくいってなかった、松尾、大間を音楽を続けたいという
気持ちを大事にし、レコーヂングに参加させる、
新田氏が担当していた、バッドボーイズから、仁をオフコースのバックに参加、

そして、オフコース 5人の時代となってゆく。