「オフコースは、小田の「お」ではじまり鈴木の「す」でおわる、
オフコース 「 さよなら 」 の謎。

オフコースがデビューしたのが1969年。

さよなら でヒットをだせたのが、1979年。
そう、実に10年も掛かった。その年月にだるま大使のような根性をずっとぼくは、
感じていたのだが、実際は、「売れなくてもいい」という時期があったそうです。
あきれますよね、そこがまたいいのです。

オフコースのさよならは、さよなら以前、さよなら以降。
そう、一つの分岐点であるわけです。

ヒットし人の心をつかみますと、
つぎも似たような歌を出すと、またうれるわけ、販売が楽になるわけです。

「さよなら」については、もう記事も4回目かな、
僕の中の、思い出にある、「さよなら」は初恋のみゆきちゃんとの訣別、
オフコースの売れたことで、昔からのファンがさったこともあるらしい。

ずっと、応援してきた人々は、オフコースが売れて、余計にチケットも
困難になり、さびしく、近くでいたのが。遠い存在になるわけです。

1979年12月1日、
寒い日に、「さよなら」は発売された。
「愛を止めないで」「風に吹かれて」の続く、曲。
田コロでも各地におけるライブでも、チケットは完売。

1979年8月1日
オフコースは正式に5人となった。
もう4.5年、大間松尾清水はオフコースのバックでやっていたが、
東芝EMIの契約や、事務所、彼らの扱いで
基本的には、バンドは対等であるべきと言う小田さんの思想の元に
メンバーとしてクレジットされた。

アルバム『Three and Two』(10月20日発売)。そのアルバムは発売されるやすぐにアルバム・チャートのトップにランクされた、
しかし、そこには、「さよなら」は、はいっていない。
あきらかに、EP購入させるためだけのものであった。

オフコースを今一度、メジャーにしようと、小田さんが持った野望であろうか。

小田さんが、音いれをし、フレーズで、どうしても さよなら さよならさよなら
がでてくる、
小田さんは、もう別れの歌はうんざりだったそうだが、最初につけた詩は、
別れの歌でなかったそうだ。

僕の中の妄想と、憶測は、
いままでの
オフコースのいた場所。ポジションにたいしての さよなら
の分岐点になってしまう。歌なんだ。

詩については、小田さんは大いに迷い、


 最初のフレーズ。

  「 もう おわりだね。
    
    君が小さく見える、僕は おもわず、だきしめたくなる・・」


もともとは、  最後のところが だきしめそうになる。

よくよく聞いてください、その部分は、自身なさそうにも聞こえる。
しかし、

だきしめたくなる。というほうが、気持ちが強い。
だきしめそうになる。 というのは 音がのりにくい。

小田さんは、みんなに、間違った。と、残念そうにいったそうだ。

「これだけ、売れることを意識して作ったことはない。」
そう、スタッフたちに小田さんが言ったのは有名な話。

歌詞をあえて間違えた真意は、
売れるためには、

別れる主人公が、彼女が遠ざかる風景を見て
抱きしめそうになる、ということは、
駆け寄り抱きしめるというつぎの光景が自分の中で起こったということ、

一次元的に、漫画的には、抱きしめたくなる、といっただけのほうが
伝わりやすい、「べた」なのだろう。

ルッキングバック2で、その部分を直すかとおもいきや
なおさない。

この歌がヒットした、小田さんは売れ筋を理解操作できるように
なった。
オフコースが認知され。
つぎのステップにいった。

しかし、このときすでに、ヤスの脱退意志はできつつあった。

オフコースは、つぎのシングルを出すことを決めた。
「生まれくる子どもたちに」
である、
この歌は平和を子孫にのこすために、という 「大義」があった。
しかし、レコード会社は猛反発する、

売れないのはわかっていたからだ。
売れなくても、オフコースは
さよならで、聞いた人たちに
その歌を聞かせたかったんだと思う。

売れる売れない、
なんとかしたい。
自分の好きなことをしたい。

いろんな葛藤があったことを知らず、
僕は思い出の中に自分と、その歌
「さよなら」の思い出が残るだけ。

少しだけ、舞台裏のたいへんさをわかればいいのだが。