鈴木康博
1948年2月18日
静岡県の修善寺のの家で彼は誕生した。
父・鈴木穣氏は東北大学航空科で学び、敗戦時の45年に卒業。
敗戦とともに日本の航空産業はGHQなどにより解体や廃止転向を
余儀なくされ、就職どころでない日本であった。
そういう中、知り合いのつてで東京急行という電鉄会社にはいり
大学で学んだ機械の知識を電車にいかすこととなった。
父は康代さんという女性を結婚。
康博は母・康代さんの実家修善寺で生まれた。
結婚式を挙げた三島大社で名前をつけてもらう。
(名前については、博という字について誰かおしえてください。
正しくは 博の「`」がないとか、いきさつ)
彼は修善寺から、父の待つ横須賀に移り4年半をすごし
年違いの弟も生まれ、一家は横浜磯子区に住居を移す。
そのころは目の前に海が広がり、山もあり自然環境の中、弟と
のびのびとした生活をすごすのであった。
康博は小学低学年のころは暴れん坊で勉強のほうはさっぱりで
あったのだが、音楽の時間は静かに聴き、音感は抜群で
音楽の先生は「ただものでない・・」とおもっていたそうである。
彼が通っていた横浜市立浜小学校は、進学の生徒も多く、私立の中学に行く生徒も多かった。四年後輩にゴダイゴのリーダー、ミッキー吉野がいたのだが、やすはぜんぜんしらなかったと、後に語っている
浜に向かう、浜小学校。。
鈴木康博も私立名門中学を目指すべく、塾に通いはじめた
小学校五年のときである。
進学塾・山手英学院である。
その屏風ヶ浦の駅から日の出町駅まで乗る京浜急行で
暴れまわる少年がいた、
遠めで見ていた鈴木少年の先には
小田和正がいたのだ。小学校五年生のときに
後のオフコースのメンバーは出会っていた。
(左うえに)
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勝手に車掌室にはいり、トンネルに入るたびに汽笛を鳴らす
少年、それが小田和正であった。
しかし、小田和正鈴木康博とも栄光学園中学を受験するが不合格となった。
二人とも聖光学院に進学することとなった。
1960年四月のことである、
中学高校6年の間、彼らはともに学ぶのである。
康博少年は弟思い、お父さんはいろいろな音楽が好きで環境はよかった。
話はかなり飛ぶが、
ぼくが一番不思議だったのは長い間、なぞ
オフコース脱退のわけ。
オフコースの売り方を小田中心のものすべきだと
したからだとか、それでB面ばかりになったからとか・・。
1979年にオフコースを抜けたいといったらしい・・。
それでも1982年まで三年がんばったのだ。
やすの作品がLPではどんどん減ってきたのは
「かけなくなった(意欲)」だとか聞いた。
それとメッセージ。なぞの本人のメッセージ。
「ぼくはかたにはめられるのがいやなんだ、いろんな音楽をしたいから・・」ということを1982.6.20の武道館のライブのDVdのなかのインタビューで答えている・・。
それからもっと難解な言葉
「売れたら困るんだ」
売れたら困る。この話も長くなる。
やすは、この聖光学院を6年間過ごし、勉強もして頭のよく
大学にも進み、就職も決まった段階で
進路変更し、大学院にいきながら音楽をするという
決心をした。
しかし、厳格な父か猛反対、
彼の父はきびしく、音楽をすることは芸能界とおんなじで
大反対されても当然、
毎晩毎晩、父親の許可をとりに話をした。
最後は「勘当してくれ!」と言い出す始末。
厳格な父の下で唯一の反抗がそれだったのだろうか、
しかし、なかなかプロの道はきびしく、売れない。
1979年といえばもう10年の月日を費やし
やっとのこさ、ブレーク。
しかし、そこで自分の居場所をなくし、
ファンの層が広がり戸惑い、その売れ戦を狙って作品を
作ろうをすることを強要されるのだろう。
「さよなら」に歌は、オフコースの中でも分岐点にある唄。
せっかく、がんばってきて、そこで頂点に立ちながら
違和感を感じ、自分がいなくてもオフコースはできる、
自分は自分の音楽を探さないといけない。
そうおもったのだろうか・・・
しかしだ、「さよなら」の歌を盛り上げるのは
ヤスのコーラスであり、ヤスの間奏の「泣くエレキ」である。
あれがあるから、いっそうの臨場感があるのです。
ためにためた感情を吐き出す「さよなら」の影でやすの音はなくてはならないもの、
やすはオフコースを辞めて、かなりの間、オフコースの歌やあのコーラスのフレー^ズを封印した。
「悪い」とおもったのだろうか、
このあたりのことは本当によくわからない。
しかし、オフコースそのものはやす本人であり、
やすが築き上げた音楽の形がオフコースであるといえよう。
アルバム[ I LOVE YOU }
このアルバムのA-2
「愛のゆくえ」という歌の中にやすの気持ちが
入っているとおもう。
このアルバムは休止したあとにでたLP
「なぜ、今 振り返る?明日さえ見えないのに
くやしいのにくやしいのにふりかえるのに
ああ。いつからだろういそぎはじまたのだろう
いくつもあった分かれみち。わかれみち・・」
音楽の夢を続けてゆく決心をうたう、この歌は
フォワードというCDでもセルフカバーしている。
ぼくにとって、その後のヤスの生き方、小田さんの生き方
その対照的な生き方は本当に興味深い・・。
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