offcourse-love 本文へジャンプ2011.1.20UP
オフコースの歴史
鈴木康博の巻き
幼少から


 オフコースは再結成されない、
絶対に無理だといわれている。
しかし、ぼくはあきらめない。
必ずもう一度、年寄りオフコースを
みれることを・・。長七


ブログ

オフコース 伝説のグループ

オフコース。もう誰も語りはしない。
もう結成されることもない。 優しさの時代。愛の時代。 あの時代はどんどん遠く・・。


管理人のオフコースのブログ
最近更新していませんが・・
オフコースの歴史・・・
小田と鈴木の出会いから
オフコースは始まった。
鈴木康博の幼少は・・。。


鈴木康博

1948年2月18日
静岡県の修善寺のの家で彼は誕生した。
父・鈴木穣氏は東北大学航空科で学び、敗戦時の45年に卒業。
敗戦とともに日本の航空産業はGHQなどにより解体や廃止転向を
余儀なくされ、就職どころでない日本であった。
そういう中、知り合いのつてで東京急行という電鉄会社にはいり
大学で学んだ機械の知識を電車にいかすこととなった。
父は康代さんという女性を結婚。
康博は母・康代さんの実家修善寺で生まれた。
結婚式を挙げた三島大社で名前をつけてもらう。

(名前については、博という字について誰かおしえてください。
正しくは 博の「`」がないとか、いきさつ)


彼は修善寺から、父の待つ横須賀に移り4年半をすごし

年違いの弟も生まれ、一家は横浜磯子区に住居を移す。

そのころは目の前に海が広がり、山もあり自然環境の中、弟と
のびのびとした生活をすごすのであった。
康博は小学低学年のころは暴れん坊で勉強のほうはさっぱりで
あったのだが、音楽の時間は静かに聴き、音感は抜群で
音楽の先生は「ただものでない・・」とおもっていたそうである。

彼が通っていた横浜市立浜小学校は、進学の生徒も多く、私立の中学に行く生徒も多かった。四年後輩にゴダイゴのリーダー、ミッキー吉野がいたのだが、やすはぜんぜんしらなかったと、後に語っている

浜に向かう、浜小学校。。

鈴木康博も私立名門中学を目指すべく、塾に通いはじめた
小学校五年のときである。
進学塾・山手英学院である。
その屏風ヶ浦の駅から日の出町駅まで乗る京浜急行で
暴れまわる少年がいた、
遠めで見ていた鈴木少年の先には
小田和正がいたのだ。小学校五年生のときに
後のオフコースのメンバーは出会っていた。
(左うえに)













ご感想などメールでお寄せください。
osatani@osatani.com




手に車掌室にはいり、トンネルに入るたびに汽笛を鳴らす
少年、それが小田和正であった。

しかし、小田和正鈴木康博とも栄光学園中学を受験するが不合格となった

二人とも聖光学院に進学することとなった。
1960年四月のことである、

中学高校6年の間、彼らはともに学ぶのである



康博少年は弟思い、お父さんはいろいろな音楽が好きで環境はよかった。

話はかなり飛ぶが、

ぼくが一番不思議だったのは長い間、なぞ
オフコース脱退のわけ。

オフコースの売り方を小田中心のものすべきだと
したからだとか、それでB面ばかりになったからとか・・。

1979年にオフコースを抜けたいといったらしい・・。
それでも1982年まで三年がんばったのだ。
やすの作品がLPではどんどん減ってきたのは

「かけなくなった(意欲)」だとか聞いた。

それとメッセージ。なぞの本人のメッセージ。

「ぼくはかたにはめられるのがいやなんだ、いろんな音楽をしたいから・・」ということを1982.6.20の武道館のライブのDVdのなかのインタビューで答えている・・。

それからもっと難解な言葉
「売れたら困るんだ」

売れたら困る。この話も長くなる。

やすは、この聖光学院を6年間過ごし、勉強もして頭のよく
大学にも進み、就職も決まった段階で
進路変更し、大学院にいきながら音楽をするという
決心をした。
しかし、厳格な父か猛反対、
彼の父はきびしく、音楽をすることは芸能界とおんなじで
大反対されても当然、

毎晩毎晩、父親の許可をとりに話をした。
最後は「勘当してくれ!」と言い出す始末。

厳格な父の下で唯一の反抗がそれだったのだろうか、

しかし、なかなかプロの道はきびしく、売れない。
1979年といえばもう10年の月日を費やし
やっとのこさ、ブレーク。

しかし、そこで自分の居場所をなくし、
ファンの層が広がり戸惑い、その売れ戦を狙って作品を
作ろうをすることを強要されるのだろう。

「さよなら」に歌は、オフコースの中でも分岐点にある唄。
せっかく、がんばってきて、そこで頂点に立ちながら
違和感を感じ、自分がいなくてもオフコースはできる、
自分は自分の音楽を探さないといけない。
そうおもったのだろうか・・・

しかしだ、「さよなら」の歌を盛り上げるのは
ヤスのコーラスであり、ヤスの間奏の「泣くエレキ」である。
あれがあるから、いっそうの臨場感があるのです。

ためにためた感情を吐き出す「さよなら」の影でやすの音はなくてはならないもの、

やすはオフコースを辞めて、かなりの間、オフコースの歌やあのコーラスのフレー^ズを封印した。
「悪い」とおもったのだろうか、

このあたりのことは本当によくわからない。

しかし、オフコースそのものはやす本人であり、
やすが築き上げた音楽の形がオフコースであるといえよう。

アルバム[ I LOVE YOU }

このアルバムのA-2
「愛のゆくえ」という歌の中にやすの気持ちが
入っているとおもう。

このアルバムは休止したあとにでたLP

「なぜ、今 振り返る?明日さえ見えないのに
 くやしいのにくやしいのにふりかえるのに
ああ。いつからだろういそぎはじまたのだろう
いくつもあった分かれみち。わかれみち・・」
音楽の夢を続けてゆく決心をうたう、この歌は
フォワードというCDでもセルフカバーしている。
ぼくにとって、その後のヤスの生き方、小田さんの生き方
その対照的な生き方は本当に興味深い・・。