
| 誕生 | *******1534年尾張勝幡城に生まれる。 幼名「 吉法師 」。信長がつよく影響されたのは、父信秀の存在が大きくかかわる。 信長の母は信秀の正室土田御前である。彼女は信長と弟信勝※1.を生んだ。信勝は父母とともに末森城で育った。信長のみが那古屋城で育った。信長の母違いの兄弟は22人もいたそうである。土田御前は信勝を溺愛し信長を嫌った、後に家督争いで信長を滅ぼそうとする。信長の生まれながらにして母の愛を知らず厳しい境遇は後の彼の冷酷な行動の原因のひとつではないだろうか?土田御前の実家「土田」は明智家の家臣ともいわれる。 ※1. 信勝は信行ともいわれる、信勝は江戸幕府初頭の柏原藩の藩主で改易になった。(急死し男子がなく)信行の名前はのちに達成と改名した。 尾張は地理的に要衝にある地で、軍事的にも物流的にも重要な地域であった。時に戦国時代、今川氏の脅威、武田信玄の脅威、織田家間のなかで大きな危機的心理が存在したのではないか、滅ぼすか滅ばされるかのなかで、信長の父、信秀のリーダーシップは目覚しく、彼がいたからついていった家臣、他の織田一族もあったろう。彼が死んで又混沌とした尾張が始まる、そういうのなかで、もし、信長がまじめな行動で うつけとよばれなかったら。どうであったろう。 彼が後の,天才的な軍事行動を起こし続けるには演出的なものも あったのでははないだろうか? |
織田家の祖先は近江蒲生郡にいた津田家が越前織田つるぎ神社の神官になったことからはじまり、織田家を名乗る初代親真〜9代目の常松から守護の斯波義重につかえはじめた。斯波家は足利幕府の三管領 のひとつであり越前の守護もかねていた、その 1400年ごろから尾張も守護を兼務することになり織田家を尾張の守護代としておくことになった。 |
尾張国統一![]() |
天文2年(1552年)織田信秀が死亡。尾張守護代の三奉行から成り上がった織田家の三代目は、評判の悪い奇行がおおい、「うつけもの」であった。父の葬儀では、ご焼香の灰を投げつけたとある。(後世の創作と言うは話もある) しかし、後のことを考えれば彼の天才的独創的な発想、冷酷な仕置きなど、父信秀以上の事をする夢を抱いていたのではないだろうか。信秀の死後、愚行を重ねたのは偽装であり、尾張の地理の把握と織田家同士の争いの動揺のなかで、機会をうかがったのではないだろうか。父信秀は今川氏や斎藤氏ともよく戦い一番の人望を集めていた。彼のリーダーシップで尾張は力関係が保っていた。 「 町を御通りの時、人目をもはばかりなく、栗柿は申すに及ばず、瓜をかぶりくひになされ、 町中にてたちながら餅をまいり、人により懸かり、人の肩につらさがりにてよりは外は 御ありきなく候。このころは、世間公道(上品)なる折節にて候間、大うつけ とより外に申さず候。」 (信長公記) 当時の尾張織田家一族では、 ----上四郡(葉栗、丹羽、中島、春日井)・・・・・守護代 織田信安(伊勢守家) ----下四郡(愛知、海東、海西、知多)・・・・・・・守護代 織田彦五郎(大和守家)、 ----犬山城・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・織田信清(十郎、十郎左衛門、下野守、犬山銕斎と号す。姓は「津田」とも。信長の叔父信康の子 --家督相続時には、那古屋城・・・・・・・・・ 信長 ----信秀の最後の城、末森城・・・・・・・・・・・信勝(信長の弟) 祖父信定父信秀の時代に、街道の物産や人々が往来する、津島地方を掌握したことにより、織田家尾張レースのトップを走ることになった。もともと将軍家の御科所地であったが、(将軍家の弱体?)などで海東郡の勝幡城をきずく。信長が経済にすぐれ鉄砲などの資金もこういう背景があったのではないだろうか? 信長が家督をついでまもなく、鳴海城の山口教継が今川氏の軍事 援助を求めた。「赤塚合戦」(1552年)信長は兵をあげ戦ったが 信長は足軽を山口軍に突入させるが、 双方の激しい矢の応酬から始まった合戦は、 数に勝る山口軍が押し気味のまま敵味方入り乱戦となり、 信長軍では30人が討ち取られた。 合戦は数時間に及んだが決着は付かず、 信長はその日に教継と停戦互いに捕虜を交換し撤兵している。今川氏が援軍を送る前に停戦したのであろう。 尾張不統一のそのころ、清洲城は尾張守護の城であるにもかかわらず守護も守護代も名前ばかりで、家老の坂井大膳が実権を握っていた。坂井大膳は信長打倒のために松葉城織田伊賀の守と深田城の織田右衛門尉を攻撃し人質を埒し、信長を撃つために同盟を結ばせた。守山城の叔父、信光はのぶながを応援し坂井を撃つことになった。「萱津(かやづ)の戦い」天文21(1552)年8月15日である。信長はこの戦いで大いに勝ち深田城松葉城を手に入れた。この戦いの意義は信長の戦闘能力の高さを知らしめたことにある。 翌年、清洲城で坂井大膳がクーデターを起こす。織田彦五郎(大和守家とくんで、守護斯波義統を暗殺してしまう。義統の子岩龍丸は川遊びにいっていて難をのがれ信長を頼った。信長は大義名分をもち清洲を攻撃することができた。天文22(1553)年7月12日 「成願寺の戦い」天文22(1553)7月18日信長は柴田勝家に清洲城を攻撃させる、城は落ちないもの有力な武士達(河尻左馬丞、織田三位)など討ち死に。 「敵の槍は長く、こなたの槍は短く突き立てられ,然といえども 一足も去らずに討ち死の衆、・・・」 力を失った坂井大膳は信長の叔父信光に働きかけ、信長を封じもめるために彦五郎とならんで信光を守護代にしようともくろんだ。 しかし、逆に信光は信長を清洲城を乗っ取る作戦をたて、坂井大膳は危険を感じ逃げ出す。信長を窮地においこんで困らせていた坂井大膳はこれでいなくなった。信光は清洲城にはいり彦五郎をも切腹させた。しかし、半年後、この信光も家臣に殺されてしまう 。信長の尾張統一は複雑な大人たちの欲望と謀略により、達成する。21歳の若造である。信長はすべて仕組んだのかどうかわからないがあまりにも後半の都合がよすぎる点で信長の野望が見え隠れする。彼を大きく育てた環境は織田家の面々とその取り巻きそして欲望のままに行動していたひとびとかもしれない、彼がこれでまなんだのだのは、戦国の厳しさと人への不信かもしれない 、 弘治元年(1555年)4月、那古屋城から清洲に移転) 信長の兄弟たちの反乱。 織田秀俊(異母)が守山城で反乱、翌年失敗。 織田信広(異母)が斎藤義龍と信長の挟み撃ちをねらうが失敗。 1555年6月、母土田御前の溺愛の信勝(信成) が秀俊が失敗した守山城で占拠し、家老の林美作の守佐渡の守とともに清洲の南、なつかにとりでを築く柴田勝家は当時、信勝の家老でそこを守る。(稲尾の合戦)この合戦でも信長は大いに勝ち、信勝は信長反勢力の力を失う。 後の信長では考えられないが林も柴田もこのときゆるされ家老としてのこる。ただし、林はこのときの罪でかなりあとで解任される。 1556年斎藤道三が斎藤義龍により長良川のほとりで殺される、信長の美濃安全ラインが消えた 岩倉城織田信安が息子ノ信賢に追放される。 信長は信安とは叔父として親しくしており信賢と戦う、犬山城の織田信清を仲間に入れて戦う。 (浮きの合戦) ※さすがに、みなさん、どれがどの織田であるか理解不能になりませんか、これほどたくさんの織田が存在すること事体よくありません、信長は一番このときに人間不信になったいったのではにだろうか?それと、たくさんのお城もいらない、統一したものが必要とあると感じただろう。 後に 1557年、信勝は再度謀反を企て、篠木三郷を横領しようとしたが、信成の家臣と対立していた柴田勝家がこれを信長に通報。信成は信長が母が病気と偽られて清洲城内に呼び入れられ、11月2日、切腹を命じられて滅亡。 浮きのの戦いのあと、岩倉城に信賢は3ヶ月も篭城する。鹿垣戦術である、この作戦はのちに 秀吉も多用する、 やっと、これで尾張が統治されるようになった。 しかし、東には今川氏の知多の城がせまり、 美濃との戦いも目前であった。 |
平手政秀が信長の行動があまりにもひどいので抗議の意味をこめた切腹をおこなう、政秀は先代信秀の重臣として活躍、那古屋城を信長に与えた時に家老として傅役(養育係)となった。斎藤道三の娘を信長にもらう政略結婚をおこなったりした、彼の死後信長の奇行はなくなった。彼のために信長は寺を作ったほど、(この話は信長公記からでているが、諸説があり切腹の原因はほかのトラブルともある。)どちらにっしても信長がかなりのショックであったことが推測される、 織田籐左え門家、織田弾正忠家(だんじょうのじょうけ)の三奉行のひとつにすぎかなった。 守護と守護代との関係にあった。実際に統治するのは守護代で、戦国大名といわれにいたる。
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| 濃姫をめとる | (尾張統一とは前後するが)信長の正室「 濃姫 」は、濃姫は通称を帰蝶といい、生母は生母は明智光継の娘、小見の方. 明智光秀のいとこと言う説もある。明智光秀を信長の取り次いだのは濃姫である。美濃との政略結婚していたおかげで尾張統一に集中していたといえよう。尾張統一のあとのおおきな事件が 名高い、桶狭間の合戦となる。 |
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| 1560年(永禄3年)5月19日 | 信長27歳 | |
| 1562年(永禄5年)1月15日 | 信長29歳 | |
| 犬山攻め美濃へ | ||
| 猿登場 | ||
| 墨俣城 | ||
| 岐阜改名 | 美濃稲葉山城を攻略占領、岐阜と改名する。 | |
| 浅井長政との同盟 | ||
| 信玄との同盟 | ||
| 伊勢統一 | ||
| 足利義昭の上洛要請 | ||
| 永楽通宝 | 永禄11年(1568年)足利義昭を擁して上洛した時から、旗印を家紋の「 織田木瓜 」 から 「 永楽通宝 」に変更した。この思想の変革は、経済の改革と天下統一の野望をあらわしたものである。 |
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| 姉川の合戦 | ||
| 小谷城ぜめ | ||
| 摂津三好合戦 | ||
| 志賀の合戦 | ||
| 長島一向一揆 | ||
| 比叡山焼き討ち | ||
| 武田信玄動く | ||
| 大型船 | ||
| 十七条の詰問 | ||
| 室町幕府滅亡 | ||
| 天正改元 | ||
| 朝倉氏滅亡 | ||
| 浅井氏滅亡 | ||
| 長島一向一揆殲滅 | ||
| 長篠の戦い | ||
| 越前一向宗殲滅 | ||
安土城築城![]() |
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| 二条城築城 | ||
| 松永久秀の謀反 | ||
| 光秀の丹波攻略 | ||
| 木津川の戦い | ||
| 荒木宗重の謀反 | ||
| 播磨騒乱 | ||
| 本願寺 石山10年合戦 |
元亀元年(1570年〜1579年)信長の中世の勃興した宗教との対立はいろんな要素を含み、時間をかなり要した、本願寺の顕如は畿内の政治的不安定に危惧しており信長の武力に期待し美濃伊勢平定には馬や刀などを贈っていた。この強大な組織の威力を信長は天下統一の邪魔と考えており、主君などより引き付ける宗教的様子を三河の家康の分裂や加賀一揆など、危機感を抱いていた。おおさかの地理的要素のなかで、軍事的拠点の重要性も信長は認識しており、無理難題を押し付け、石山城の明渡しを求めた、流石の顕如もその取り巻きも信長の態度にあきれ果て10年も及ぶ戦いになったのである。 | |
| 伊賀平定 | ||
| 秀吉の毛利との戦い | ||
| 光秀馬ぞろえ | ||
| 三職推任 | ||
| 大茶会 | ||
| 本能寺の変 | ||
| 謎の光秀 | ||
| 信長死後の 覇権争い |
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| 信長の功績 | ||
| 参考文献 | 図解雑学「織田信長」西カ原恭弘 なつめ社 | 理解しやすいシリーズで、読みやすくわかりやすい。 |
| 参考文献 | 信長と天皇 今谷明著 講談社学術文庫 | 今谷先生の本はじつに面白くわかりやく、小説よりもリアルである、 国際日本文化研究センター教授 |
| 参考文献 | 戦国時代の貴族 今谷明著 講談社学術文庫 | 信長の時代の語りべのひとつが山科言継の 日記、この本も実にリアルです、 |
| 参考文献 | 織田信長合戦全録 中公新書 谷口克広著![]() |
谷口先生は織田信長の研究がすごい、 北海道室蘭市生まれ。横浜国立大学教育学部卒業。戦国史研究家。織田信長の本がおおい。 |
| 参考文献 | 信長公記(角川ソフィア文庫) |
織田信長、彼は一体どういう人間だったのか?日本人として戦国時代の興味は尽きない。
彼を語るにはあまりにも戦いに明け暮れた、日本統一の地ならしを行い、秀吉が継承し、
家康が完成させたそのものは、秩序ある日本であった。
人間五十年 下天のうちをくらぶれば 夢幻の如くなり ひとたび生を享け 滅せぬもののあるべきか
