神戸 灘五郷 御影郷 1978

ここまで波がきていたのだろうか

波返しであります、昔はここから砂浜で船ですぐに江戸に商品を送れる。
この海岸は、松原が魚崎から大石まできれいに砂浜がつづき、絶景であったようです。
幕末がはじまるまえ、
黒船ペリー来航以前に、ロシアの艦隊が長崎にきて、漂流民の受け渡しと通商を求めきたが、拒否され、ロシアの艦隊は抗議をかねて、大阪湾に進入し、この御影沖にいかりをおろしたと、吉村さんの小説にありました。
僕の先祖もみたんだろうと、さぞかし、おどろいたのでしょう。


独特の屋根の形をしていて、六甲の風や浜風をうけにくくするためであろうか

ぼくが今は無き、高層マンションがたつ某御影工業高校写真部時代に撮影したものをUPします。自分の家もこの酒蔵のちかくにあり、ひっそりとした蔵を歩くのが好きでした。
長七 という屋号で、菊正宗酒造の樽を製造していたのが、国道43号線の真ん中あたりで江戸時代からやっていたそうです。あの独特のお酒のにおいがたちこめるみちであった。




お酒の管理は空気と湿度の管理が大切なのだろうか、ところどころやぐらのようなものがあり、煙突があちこちにみえます、アサヒペンタックス200ミリの望遠で撮影してます。

海岸へとつづく南北の道です、車が一台通過できるかどうか、民家もすこしあり
友人の家がありました、


これらほとんどの建物が平成七年の震災で崩壊、

この路地がぼくはとてもすきでした、車はむりなみちです、おくにみえるのはモロゾフの工場です。旧長七の家はこのちかくにあり、おそらく、できたての樽を馬で運んでいたんでしょう。これらもすべて震災で消滅しました。

屋根の色がどうだったのか記憶にありませんが、みごとな屋根であります、この煙突の工法にも興味がわきます。

この灘の酒つくりは江戸時代中期に勃興し、
西宮のある場所で採取できる、「宮水」。兵庫のうまい米、六甲のつめたい風、「六甲おろし」、丹波地方から季節労働者の「杜氏」。おそらく、このあたりの誰かが発明した「樽」
そして、江戸時代の流通の「菱垣廻船」からの進化した、「樽廻船」の開発。江戸の人気はすさまじく、辛口の灘の酒は、とぶように売れた。
しかし、危機は訪れる、幕末維新の時代の変化、税を多重にかけられかなりの酒造家は廃業。
次の危機は戦争。しかし、このあたりは江戸時代からの蔵であり、43号線以北が
阪神大空襲で全滅した。蛍の墓の空襲はこのあたりのこと、
わが長七の樽工場屋敷蔵すべて焼夷弾により、全滅。
僕の推測ですが、長七の家あたりから爆撃しだしたので、この蔵たちは生き残った。
米国はこの蔵の破壊をせず、川の上流にあった、飛行機工場を攻撃の目標とした。

壁は黒く塗られていたのか、腐敗せぬために焼いていたのか、不明。左にあるたてもの窓はサッシがない時代がほんのすくしまえまであったことをおもいだす。


陸橋から望遠で海をのぞむ、福寿の看板がみえる、福寿さんは被災しながらも立ち上がるのです。まだ、六甲アイランドにゆく橋もありません、沖にみえるのはできたばかりのLPGタンク、震災のときにこのタンクが亀裂し、爆発炎上のおそれがあり、避難勧告が出ました。しかし、横のタンクが空で無事であったので、急遽横のタンクに移し、余震でも爆発しなかった。僕は避難勧告がでたことをしらずに、家にいました。




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灘の酒を江戸に下る「樽廻船」という話になり、
もともと江戸時代には秀吉が築いていた、流通ルートがあり、菱垣廻船という
千石舟が日本の各地を産物をのせて回遊していた。
その樽廻船というのは発想としては今のコンテナ船の今元であり、
いかにできたての酒をすばやく載せて、江戸の送るかということで
樽廻船が発明されていた。
その樽を作っていたのが、うちの先祖で、その屋号が「長七」ということです。
樽というものは吉野杉で作られていて、釘などを一本もつかわず、
竹で絞めてできるのですが、その杉を買い付けに奈良の山奥までいったそうです。

そして、杉を乾燥させて、円形に整形する作業が、丸かんなという道具の発明に
よりできたのです、司馬先生によると、不確かであるが、灘のどこかで発明されて
桶にふたをし、頑丈にさせ、詮をし、上からわる、鏡わりや
下の詮からだし、陶器の徳利をかして、販売するという方法がとられた、

丸かんなというしろものが今どうなっているかしらないが
おそらく、三木や西脇あたりで作られてかんな職人がいたんだとおもう、

で、司馬さん話によると、
樽屋ふぜいが、江戸での灘酒の販売好況で売り上げをのばし
えらそうに、していた。ということを書いていた。

昔は、ビンもなく、紙パックもなく、樽という輸送手段が重宝され
醤油もすべて、それでおこなわれていた。
江戸の昔の店で、酒と食べ物を安くうりさばき、大繁盛したという瓦版をみたことがある、
その秘密は、酒をたくさんうって、そのあいた樽を再び、売って利益をとる、という秘密があった
という、

樽の話にもどるが、偶然に、その容器で江戸まで太平洋の粗なみでもまれると
「透明感のある、すんだ、辛口の酒」が、杉のある物質のより化学変化をもたらすという。
その杉も樹齢80年を超えたものでないといけなく、なかの木も赤みと白イ部分が
あるとこを厳選するらしい、その杉の成分は欧州のバーボンがオーク材をつかうという
原理と同じもので、モルトの熟成もその樽での役目が大きい。
その化学成分が、実はおもいだせない、なんとかべんぜんだったか、

お酒のおいしさは、お水で決まり、宮水という、西宮の水で
六甲のおいしいみずではなく、その場所でしか採取できない、国道43号線と171の合流地点の
近くに今もある。硬度のたかい、要するに六甲の花崗岩と地下にある「貝殻の化石」のような
部分があるところを通過して水がおいしい、酒にあうという、それを発見した人が
桜正宗の創業者であったと、司馬氏は述べている、

その水と、樽と、米である、ああ、話がながすきました、
あと、人と、いろんなものがあって、素晴らしい商品が成り立つ。
ということを言いたかった、
長尾和先生のイラスト 当時の浜中郵便局で 出されたはがきセット