ぼくが入学した年は1980年でした、80年から84年のころを中心に思い出を語りたいと想います。

一年のときは神戸から電車通学でした、へたすれば2時間半もかかる長距離通学、朝一時間目をでようとすれば阪神電車の始発にのり、梅田まで、阪急に乗り換え四条大宮、
四条大宮から堀川までてくてくあるき、上賀茂神社ゆきのバスにのるのですが・・。
このバスが強烈で、なにが、すごいというと、京都の女子高生たちが山のように乗る時間にぶつかるのです、何回も何回も振り落とされ、乗れない。下手に乗ると痴漢を間違われる。
やっと、バスにのり、上じん、についたとおもうと、
今度はすんごい行列、スクールバスの行列、やっとこさ、乗り込んで学校に着く。
学校につくころにはへろへろになっていた。
 ぼくは高校までは地元で全部あるいて5分の場所。それが果てしない山のおくまで
通学するはめになるとは、
おかんいわく 「下宿はあかんぞ!かねかかるし、通学にしておき!」
サークルに入る時間もない。その上、自動車教習所に春から通っていたのに、
学校が始まり、京都からわざわざすっとんで、甲子園の自動車学校まで通う。
しかもだ、ドンクさいぼくは、6ヶ月の期限ぎりぎりまで路上教習をしていた。
バイトする時間もない、サークルも入れない、勉強はさっぱりわからない。
へこみまくりの一年生であったのだ。

阪神⇒阪急⇒市バス⇒スクールバス⇒階段

しかし、もっとすごい女の子がいた。
阪堺⇒大阪地下鉄⇒京阪⇒京バス
というもの、しかも、京阪電車でしっかり、予習をするとのこと
しかもだ!!サークルを二つもして、コンパも参加していた。

もっとすごいのは、新幹線で姫路から通学するというひと・・。

いまは、京都産業大学のアクセスは改善され
しかも、階段はエスカレーターという文明開化になり、
京都の地下鉄(81年開通)がずっと、おくまでいったり、
京福が叡山鉄道になり、学校の近くまでいけるという夢のような話。

ぼくは、とうとう通学が嫌になり、友人の下宿を泊まり歩くようになって、
一回の春休み、魚屋で3ヶ月バイトし30万をためて、家を出ることにした。
おかんは、とてもさみしそうな顔をしていたのを思い出す・・。
2013年02月22日 金曜日記す

大学についても階段が階段が階段があった。

このピロティの池もなくなったそうです

1983.11ごろ わがクラスのメンバー



アグネスが大学で講演。

応援団の皆さん、ご苦労様でした
「がくらん」「学生服」がたくさんいた、
なんで、大学にきてまで、がくらんがおおいのか?
不思議でしかたなかった。実を言うと僕の高校は悪がおおく、がくらんが
つっぱりでたくさんいて、もうたまらなくいやだったのだ。
しかし、学生服は三叉路でもどこでも挨拶をしている、こんにちわ!
こんにちわ!なんて、礼儀ただしいのか!なんだ!あいつらわ?
なんだ?追分寮は?え、山科までかえんの?門限があるの?
二段ベッド?とにかく、きびしいという話しをきいて、おどろく、
一方、応援団、三叉路からピロティーを
「おっす!おっす!」「ごっつあんです!」「おっす!」
「ごっつあんです!」「おっす!」
もう果てしない繰り返しをしている。それと勧誘だ。
「サークルははいった?」
「いや、ぼくははいれない」
「なんで?」
「なんでもいいじゃないですか・・」
ひつこい、ほんと、ひつこかった、
これが4月5月の恒例のシーンであった。
しかしだ!2年になっても3年になっても、4年になっても
ずーーーっと、友人のS君は新入生を間違われ、
「新入生ですか?」
「ちがいます!」
「おっす!失礼しました!」と、やっていた。

「なんで、おれは4年になっても勧誘されるのか?」
僕に聞いてきた、ぼくは理由をしってても言わなかった、
心の中でつぶやいた。
「いなかもんにみえるんじゃ・・」口が裂けてもいわなかった。

4年のアル春の日、
あいかわらず、応援団が勧誘をひつこくやっていた。
僕の少し前を三叉路からずっとやっていた、しまいにはひきずるように
「クラブハウス、いこ・・。みるだけでええから」
新入生は相当嫌がっていた。
ぼくは、切れた、
「 おいこら!いやがってるやないか!!やめんかい!」
ぼくはでかい声でどなった。
新入生はおどろいて逃げ去り、エンダンの彼は立ちすくんだ。

「おっす!」
あ、こいつ誰かとこの僕を間違えている、と想った。
「な、いやがってたやろ・・」
「おっす!」
おっすしか、いわない、しかし、ぼくにびびっていた。
あ、そうか、こいつ先輩にいわれて部員を増やすためにノルマあるねんな・・
と、思った。
しかし、黒服のかれは直立不動、よくみるとあどけない顔。

ぼくは彼はとても、いとうしく思えた、

そんな、応援団もいまは一人しかいないとか、
さみしいもんです、あいつはどないしてんねやろ・・。
「おっす!」応援団最高!大好き


昼休みくつろぐ学生たち、のんびりとした時間が、平和がそこにあった。
1983年ごろ

大学の前には立命館のグランドがあって、1984ごろ買収しさんだいのものとなった。
弓道場などもみえる・



あの時代は80年前半、この二十数年で劇的に変化、あのころはまだコンビニなんてのはなかった、駄菓子やの延長戦みたいなパンやさんとか、おじさんおばさんの営業する食堂、ほかべんもなかった、ファ味レスは出来た頃であった、

僕のちかくの食べものやさんは、有名なところでは「千成食堂」安いのが300円で飯が食えた、おじさんはいつも競馬新聞を読み、奥さんがはこぶ。娘は手伝わないし、息子も愛想悪い高校球児。なんどか、京都を訪ねるがそのころはまだあった。でもね、最近行きたくて仕方ない、でも、もうないとか現実を実感するとまたもや喪失感で満たされるので、行かない。子供がついでいるのだろうか。

上加茂神社の近くでは、「今井食堂」、これはテレビにもでていた、さば味噌定食がやすく、それしかない店で、壁に向かったもくもくと食べる、しかし、あるとき、清水が運悪くさばにあたり、アレルギーになり、ぼくもいかなくなった、でも、人気の店でした、

風呂や、食堂、コインランドリー、小さな食料品店、酒屋、

いろんな店が学生で成り立っていた京都のまち。

K先輩はぼくが日清焼きそばUFOが実にうまく、カロリーがたかいと、教えると、そればかり食べていた。しかも、お湯を

窓からとゆにながす、二階だから。

K先輩の恋の行方は、みんながやきも帰している間、お膳立てもしても、二人にしてもノーアクションであった、

「ともさんがまったいるのよ!」とわざわざ、友人の福井の女の子がいってもだめだった、

下宿の二階に上がる階段は木製できついのぼりだった、そこの壁には思いもいのアイドルのポスターが貼られていた。河合奈保子、北原佐和子、松田聖子、中森明菜などの微笑が迎えてくれていた、そのポスターを見るたびに

奈保子ちゃーーーーん、と叫ぶ先輩、そうか、デカパイがすきか?(その頃はきょ乳という言葉はなかった)

あの頃の僕の日記ノートを見ると、本当にいろんな人が下宿を訪ねていた、先輩の同郷の女の子もよく来ていた、世間話をただして帰る、不思議なもんだ。

それと、あった人すべての誕生日を聞いて、覚える能力があった。簡単な贈り物をするのだ、それにつられて僕たちも誕生日のプレゼントをするようになり、金もないしアイデアもうかばず、たびたび悩んだ。

さて、先輩の恋はままならず、卒業と言う時間を向かえ、富山に帰る先輩、しかし、マドンナは大学院の研究室にのこり、京に残る、それでも、ぼくたちの下宿を訪ねてくれる、食い物をもって、

あるとき僕は真相を尋ねた、「彼氏はつくらないんですか?」

平然と、いる、と答えた、しかし、卒業までの契約だという、なんとも早割り切ったお付き合い、そういえば、おんなじことをいっていた友人がいた。

ぼくとはいえば、いつまでも初恋の亡霊に虜になっているのに、

憮然としていると、「彼女はいないの?」と聞いてくる。いない、の即答。

1995年1月16日

ぼくは震災の中、パニックになっていた、そんなとき、ポストに葉書。

「困ったことがあれば電話してね、心配してるよ」そのもとさんからのてがみ。

僕のぽたぽた落ちる涙で葉書の字はにじんだ、

公衆電話に並び、感謝の言葉をつたえた。ガ、今も赤面する言葉が出た

「もとさんのようなひとと付き合って結婚したかった。」相手がフリーズしているのがわかった、そのときは、34歳、大きな失恋を3回もしてPTSD状態に上に大地震であった。(意味不明)

K先輩は田舎に帰り結婚、もうすっかりはげていることだろう、

もとさんは地元の人と結婚、子供たちも成人し、50を迎える。

あのときすれ違った出来事が昨日のように思い出される


長い長い階段をあがる、産業の意味は山行のいみでもあったかも
2002年にエスカレータができて階段はお役ごめん。月曜日この階段を上ってゆくのは
しんどいものでした。


休憩室のまえ、三叉路。応援団がならんでいます。

本当に雪がよくふりました。雪が降るとバイクにはのれない。
わが思い出の京都産業大学