組合活動で参加していた、年に二回リクレーションを行った。
何十年かの記念で
バスを貸し切り、できたばかりの橋をつかい
淡路島に行くことにした。お弁当を奥さんが仕事をしていた
弁当屋で頼み、
野原で、みんなで、食べた。
社員の家族、子供たちが中心にたくさんきていた。
みんな、楽しそうだった。
ああ、よかった、と思った。
みんなの笑顔を見ていると、苦労もあるんだろうな
と、考えた。

帰りのバスで、
最後にスピーチしてくれというので、はなした。

当時は、ワンエムが進行していたので、
そのはなしと、旦那さんの健康管理をよく見てください
と、奥さんに頼んだ。
それと、過労死問題について述べた。
必ず、何時にいったか、何時に帰ったか
記録してください、
店ではほんと、いいかげんで、誰も守ってくれない。・

そう、述べた。
みんな、真剣に聞いていた。
ぼくは速かれ遅かれ、いつか、
過労死問題は起きると思っていたから、

案の定、
その数年後立て続けて、2人の店長が
過労死でなくなった。
酷い物であった。

だんだんと、ぼくのココロはガストやすかいらーくとは
離れつつあった。社員の女の子は、がんばりやであったが
好きではなかった。しかし、まあ、どうでもよかった。

彼女はあたりがきつく、できない人間には
ぼろくそにしかりつけた。
当時、中国人留学生を2人臨時雇いにして
ぼくがキッチンで教えていたが、
1人の中国人が、泣いて、辞めると言ってきた。
止めても聞かないし、話も真髄を得ない。

結局。辞めた。
そのほかにも、きつい、言い方がどうのこうの
と、辞めていくのが数人。

これなら、ワンエムでやってるほうがまだまし、
でも、ランチの泥棒をつかまえてくれたり
やる気はまんまんだった。
「まるまる君がライスをたきすぎです、全部捨てました!」
「スタンバイが多すぎて、全部捨てました!」
「なになにさん、文句がおおすぎるんですよね」

報告は、まるでろくでもないものばかり、
じゃあ、どうするのか、どうしたのか
ぜんぜんなかった。
それでも、部長や上のものには気に入られていた。

片山さんがフロアーのオペレーションが
どうのこうのと、部長と一生懸命、その女の子の社員と
はなしてる。
おいおい、あいつは店長か?
ぼくは、内心驚いた。そのまま、ぼくと一言もはなさず
帰った本部の片山さんにもあきれたが、
完全にどうでもいいと思い始めた。

とりつかれたように突っ走ってきて
何もつかめないまま、若さも無くなってきて
何事もばからしく思えたきた。

104. 夢野 19