M事件が1996年のGWに起きて、毒を出し切ったようになった。
再び、求人を出し続けるが、予算が無くなり、許可なしで出し続けた
自分でチラシをつくり、看板をつくりはったりもした。
大川原さんが、予算オーバー、許可無しでやったことに対し
店長会議でひどく怒られた。
「ああ、もう出せないな・・・」と、求人広告は諦めた。

まだ、当時は時給相場は700円から750円程度であったと思う。
神戸は震災でダメージを喰らい、働く場所が無くなったひとたちが溢れていたが
どんどん、96年の夏あたりからビルや街はできはじめた。
ランチもアイドルも忙しく。
特に、アイドルは一人でやるので、そこに満席になると
どうしようもない状態が続いた。

忙しさに負けて、しんどい、いやだ、そういうネガティブのれん中がM事件を
きっかけに辞めていった。
なかでも、高校生のキッチンの男子のこが、
すぐに休んだり、辞めたいと、漏らしていた。

96年の求人難のときに、何人も何人も採用したが
残ったメインとなるひともいた。Rさんというひと、キッチンの岡本さんとかである。
Rさんは、在日三世で、訳ありのひとだった。
土地柄在日のひとは、多かった。
面接の時に、日本名でするか、どうどうと本名でするか、必ず
選択させた。
Rさんは、本名でやるという。
さきほどのキッチンの男子が辞めるとかいうのをRさんは
頼みもしないのに、説得して、辞めないように説得していた。
神戸夢野でもこんなに意識が高いのがいるのか、それは驚いた。
キッチンの岡本さんも、続くかどうか心配であったが
日曜日祭日の朝のトップのスタンバイラインにはいってくれた、
それと、土曜日、水曜日のナイトもはいり、昼間は歯医者の受付をしていた。
ぼくが朝5時からスタンバイしてるのを見て
頼みもしないのに7時入りなのに、1時間はやく入りスタンバイを始めだした。
ぼくがこの二人のラインは本当に助かり、頼もしいと、感じた。

しかしながら、ランチはまだ自分たちで営業することができず、
どことなくぎくしゃくしていた。
キッチンのメインは植木さんという方で、イエスタディからすかいらーく、ガスト
の三業態を経験していた、寺坂時代の集団ボイコット退職でも辞めずに
がんばってくれた。
10年目のときに、花束を贈り、社内報にも載せてもらった。
しかし、植木さんは一匹オオカミのところもあり、まあ、他のメンバーとの
時間帯もずれていたこともあり、メンバーをぐいぐい引っ張るような感じでも
なかった、
フロアーは、三木さんという方で、鈴木店長が残してくれたメンバーであった。
その二人がキャプテンであった。
そこに新人たちが再び入り再構築しだしたのである。
キッチンのスタンバイも秋になると、なんとか抜けることができて
ランチの形ができてきた。
ぼくは、まずはランチのひとが仲良く融合することが大事と思い、
年末には忘年会をした。
そして、仲良くなることも大事だが、懸念すべきは
仲良くなりすぎることも避けなければならない。

あれだけ苦労した、前の店、伊丹瑞穂のランチが崩壊をしていたからだ。
人づてに耳に入ってくる、それは悲しいことであった。
そうはなるないようにするには、
人が人につくのではなく、
人が店に着くことが大事であり、
融合しだして、仲良くなりかけたころには、突き放すようなことも必要である。