85. 最後の戦いの火ぶたが切られた。神戸夢野店 其の①

1995年は本当に世の中が変わる年であった。
伊丹瑞穂を去るとき、一体この4年間は何だったのか、自問自答してみた。
よく、後輩たちにいっていたのは、何のために、何を目標として働くか
そういう意識をもってやらないと、ただ漠然とやっていたら
時間と自分の浪費である。
と、いっていたにも関わらず、自分自身は目標もやる気も失っていた。
ガストというものに完全にやる気を無くしていた。

深夜の客層の悪さは、どのガストでもひどいものだった。
高校にもいっていない、ヤンキーが集結するのである。
すかいらーくのときには決して来なかったのが、客単価を落として
安くなったので、深夜の集結にはもってこいであった。
恐らく、学校でも嫌がられ、家は崩壊し、バイトか土木作業員かして
まあ、仕事してるほうはましだが、深夜の客層は最悪になった。
深夜、社員がいるのならなんとか対応もできるのだが
無理矢理、社員を減らそうと会社はしてるのだから、
頭抱えるしかない。
すかいらーくのときは893さんが大変であったが、
彼らのほうがよっぽどましだったということである。

神戸夢野店は酷く、寺坂店長は追い出し作戦を行い、
警察も呼んでいた。呼んでもいないのに、パトロールまでするようになった。
寺坂店長は、自ら解決していたようなことを僕に言ったが、事実は違うのであった。
ガストのヤンキーについては別に語るので、ここではおいておく。

しかし、阪神大震災で、人の心は変わったようになり、(変わらず被災地で泥棒や
悪いことをするやつもいたが)、ヤンキーたちは来なくなった。

家を探すのが大変であった、地震で家が潰れた人がたくさんいて
それどころではないのである。
ぼくは、もう何でもいいから見つけようと。
店から遠く離れた、東灘の田中町にあるワンルームを見つけた
12万もする部屋だった。何割かは会社が払うのであったが
不本意ながら店から遠かった。
そのワンルームは二号線にあり、北の方をみると
見渡す限りの空き地がひろがり、道路には電信柱が倒れ
激震地であったことを思わせる光景だった。

まさか、神戸に帰ってくるとは思わなかったので
しかし、それから始る大変な日々はとんでもない物であった。

引っ越しが終わり、寺坂さんとの引き継ぎの日に
夢を見た。新しい彼女の夢であった。


注意、このページはすかいらーく本部さま、会社さまとなんら関係のあるものではありません