公判の段階で実施された情状鑑定が小林被告を犯罪傾向を伴う「反社会性人格障害」「小児性愛」と診断し、「被告人の人格は生来性のものとは言い難く、不幸な育成環境にもとづくもの」と結論づけたことに対し、「被告人に帰すべき犯行の責任の一端は社会が負っている。被告人に顕著な犯罪傾向があることは否定しないが、被告人の反社会性人格障害は素質によるものではなく、環境的要因がより大きな影響を与えていることを考えると、殺害後の犯行の刑責を加味しても死刑とすることは相当ではない」と強調。

 そのうえで、「社会が被告人のような反社会性人格障害者を生み出していることは決して忘れてはならない。そのためには被告人を死刑にして社会から物理的に抹殺、排除してはならない」と訴えた。
奈良新聞

小林が死刑を望む。弁護人は控訴をしろというその返答に
「 そんなことをしても、社会は変わらない・・」
という意味不明の発言を行った。

まるで被害者の発言である。
反省の言葉はまったくない。
死刑を命日(殺害)までの行えと、法務大臣に手紙を送ったそうである。

この意味不明の言葉をずっと考えてみた。
では、犯行は社会を変えるためにおこなったのだろうか?
それは違うだろう。

取り返しのつかない結果、もう人生を捨てて、どうでもいい心境であろう。

昔の人々は犯罪を犯すひとびとまたは予備軍への
抑圧として、地獄、天国という思想を行った。
地獄におとされる、死んでも地獄で苦しみ続ける。
罰を閻魔大王から受ける。

いまの無宗教の時代、エゴイスト宗教でもきかない、。

反社会的な行動。
社会に対しての恨みのよる行動。

それがなぜ、社会が変わらないから。であるのだろうか?

最終弁論

▽被告人の生育環境
 被告は幼稚園から小学校、中学校といじめの標的にされていた。またこの時期、父による暴力は常軌を逸し、ゴルフクラブや金属バットなどを用いることもあった。 小学四年生時には、母が三男の誕生と同時に死去。すべての家事をこなし、子供たちに愛情を注いでくれた母の死により、被告の生活状況や精神状態は一変した。

▽被告人の生育環境がもたらした影響
 被告は、幼児期からの継続的ないじめや父による暴力、母の死から終始無力感が付きまとい。対人理解を欠くこととなった。
 さらに幼少時代から刻み込まれた孤立感や感情の抑制は、今日に至るまで引き継がれ、社会を一生憎悪し続けるものとなった。

▽殺意の発生時期について
 女児が風呂を出ようとしたときに、殺意が発生したと捉えるのが相当である。
 検察官の理解では、女児が風呂場で大声を出したり暴れるなどの状況にあったわけでなく、直ちに女児を殺害しなければならないまでの差し迫った状況は認められない。
 マンションに連れ込み、宿題をしている女児の様子や入浴している姿を見て、女児に対してわいせつ行為の対象であると同時に、それ以上の幸福感をもたらしてくれていた。
 ただ被告人は、女児が風呂場で「おっちゃんエッチ」と言って、風呂から出ようとした言動に驚き、とっさに殺意が生じて、殺害に及んだ。
 被告は女児の風呂場での言動によって、「愛情」から「憎しみ」に転化し殺意を形成した。殺意が突然、衝動的に生じたもので、犯行は計画的なものでないといえる。

▽殺害後の死体損壊とメール送信について
 本件で特徴的なのは、殺害した死体を損壊した行為、死体写真を添付しての「娘はもらった」とのメール送信、被害女児の妹の写真と次は妹だとのメール送信行為である。これらの行為は本件全体の残虐性、凄惨さを強力に印象付けている。
 しかし、殺害後の行為はもともと被告が殺害までも意図していなかったのに、殺してしまったという予想外の状況の中でパニック状態に陥り、絶望感や開き直った心境となって場当たり的に展開された行為とみるべきである。

▽死刑求刑について
 本件の犯行は被告の反社会的性人格障害が根底にある。
 小学生時代、母親が病死した直後の作文を読んだり、被告との接見から考えれば、あまりにも犯行と落差があり、犯行は社会によって作り上げられたものとしか考えられない。
 弁護人は被告に対する同情を求めているのではない。本件では社会のありようが問われていることを指摘したい。

【おわりに】
 旧西ドイツの元大統領であったワイツゼッカーは連邦議会で「問題は過去を克服することではない。過去に目を閉ざす者は現在にも盲目となる」と演説した。
 過去とは、ナチスドイツ支配下のドイツ。過去を犯罪、重大な事件と置き換えて本件を振り返って見るべきだ。過去を心に刻む、即ち本件を心に刻むことが社会に求められている。
 すべての責任を被告になすりつけ処刑することは、本件を葬ることになる。過去に口を閉ざして、悲劇を忘れてしまえば、再発は防げない。裁判所の高い見識による英断を確信して、この弁論を終わる。(奈良新聞)

裁判官のいう判決、
弁護人のいう弁論、
本人のいう不可思議な発言。

犯行が社会により作られる。
その報復がまたおこなわれる。

この20年、30年、学校や社会において、「いじめ」が行われてきた。
このいじめを克服したものや、封印したものはよいとされても、
小林のように人生を無意義な犯罪死刑人と終らせることは、
小林だけを死刑にしても、次の楓チャンのような犠牲をおきてくるのは
当然であろう。

根本をたたないと、いけない。
根本とはなんであろうか?

小林は、自分の人生をこの社会を変えることにやくたつと、考えたのであろうか?自分の行為を、非。としながらも、反省する脳機能は欠落している。
彼が、欠落しているのは、人への愛情、家族愛、子供への愛。
であろう。
そういうものを否定することが、自分の存在を示すものとなったのではと思う。
自分が受けたいじめ、家庭内暴力により、愛情機能が欠落した。
では、それらがほんとうに、社会の責任であるのか。
弁護人にいうことは、的をえにくい。
社会でなく。その小林をなぐった父ではないか?
もし学校でいじめられても、母が死んでも父が努力すれば、
愛情を与え、人を愛することを教えるのではないだろうか?

その小林の父が、いまはどうしているかしらないが、
社会を恨むより。家族があるべき姿に戻すのが一番であるとおもう。

小林の家庭は、楓チャンの家庭のような愛情いっぱいの家庭とは大違いで
憎らしく感じたのでろうか。

家族はどうあるべきか
家庭はどうあるべきか。
その上で社会はどうあるべきか。学校はどうすべきか。
などが連鎖状に広がってゆくのだと思います。

社会だけでは、人への愛、を教えることができない。
母親、父親、もしくは、それに変わるものが注ぐもの。