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阪神石屋川駅は震災で大きなダメージををうけました。阪神で石屋川におりると、とてもきれいな駅になっています。昔は、川の上にあって、ホームがせまく、特急の通過には吹き飛ばされそうなかんじでした。2004.5
現在
震災後 2004
鎖のフェンスがあったところには
おそらく、明治期につくられた防波堤が存在しました。すべて撤去されています。このあたりまで海岸であったようです。幕末の時代に、開国を求めてきた、プーチン提督らのロシア艦船が御影沖に停泊し騒然となったことがありました。
まだ、ペリー黒舟の前です。長崎で江戸幕府に開国拒否されたあと、伊豆に向かう前にこのおきで停泊したそうです。
この海には、埋め立てが相次ぎ、汚い海と工場の汚い空気で最悪の環境のようにかんじました。最近はまだましですが。
江戸中ごろから栄えた、このあたりは震災後、閑散としてしまっています。
御影小学校。この正門は古いですよ。
たぶん、戦前からです。校舎もきれいですね
木造校舎はもうない・・
↑御影小学校木造校舎のページ・・

1980年ごろ
30年ほど前の石屋酒蔵南の防波堤跡。手前の酒蔵はすべて震災で倒壊。川向こうの蔵だけが残る南には産業道路ができ砂浜は埋め立てられきれいな松並木や砂浜はなく、鉄くずの集積場となり、海は工場や家庭汚水などで
死んだ海になっていた。
| 阪神間の河川において、天井川といわれるのが湊川、 石屋川、住吉川、芦屋川などである。それらの河川は短い川で六甲山系における雨の排水で生じたもので、夏などには 枯れてしまうほど、流量はすくない。阪神大震災において神戸芦屋西宮の活断層が動いた、淡路から大阪湾においてバトンリレーのような横に走る断層は六甲山を押し上げる源でもある。六甲に山並みには、御影石などで形成され、その岩は侵食し岩になり砂になり下流にながされていく。その土砂が曲者でまた土石流となりこの地域を襲う。川は自然に土砂がたまり一説によると湊川の洪水(1999)においては20万トンの土砂が川に運ばれたそうである。土砂をさらい、堤防を築く、その堤防がまた、大雨で決壊し土砂が流れ出す。掻き出す流れ出すの繰り返しが太古から行われ、交通の妨げになるほど中流付近では壁のような堤防ができてしまう。 |
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| 石屋川は川として平均水量がすくないにもかかわらず、 最大水量の大きな川となっている。100年に一度の梅雨時期における「 舌湿 」がこの地帯をおそうと、六甲の壁にぶつかりとんでもない雨量になる。 ※下層では暖湿流が舌状になって日本列島付近に延びてくるがあります。 これを「湿舌」と呼んで集中豪雨を持続させる働きをします。 この時の「湿舌」の中では暖湿流の強い風の流れがあり、これを「下層ジェット」と言い集中豪雨の発生の目安となります。また、集中豪雨は局地の地形にも影響を受けます。 太平洋側の南西側や南東側の斜面は上昇流発生の要因になっており注意が必要 です。内陸部でも沿岸部で発生した雲が次々に送り込まれて1ケ所に集中豪雨をもたらすこともあります。 |
![]() 1872年(明治5)、新橋〜横浜間に開通した日本の鉄道。建設工事が始まったのは1870年(明治3)で、西日本で最初の開通となる大阪〜神戸間も同じ年に着工された。大阪〜神戸間では、日本の鉄道で初めてのトンネル工事となる石屋川トンネル(約60m)の掘削や、神崎川などの鉄橋架設工事が行われた。当時は鉄道の建設技術を習得している日本人は皆無であり、測量、橋梁の設計から汽車の運転にいたるまで、すべての技術を外国人技師の指導に頼らなければならなかった。ことあるごとに通訳を要したため工事に時間を費し、さらに、鉄道建設の進展とともに増員される外国人技師の高額な給料も負担となっていたことから、鉄道頭の井上勝は、日本人技術者の必要性を強く感じたようだ。 ![]() かなりぼけてますC622鉄道100年で。 石屋川トンネルがうつってます。この数年後高架工事がはじまりす。 日本最初トンネルは戦後、頑強な鉄骨を入れてのトンネルになりました。しかし、高架完成後は埋めるられるのでありました。 昭和49年ごろ |
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↓の建物は川向こう
で、震災でものこる。
この画像は望遠ですので一番おくのは
石屋川の向こうの蔵です、この蔵はのこりましたが、前方の防波堤を壁にしたくらは全滅です