もう、考えるだけでも、恐ろしい事件がおこった。
この件については目を閉じたかったが、頻発する少年犯罪について
考えてみた。
少年は、なぜに、放火殺人をしでかしたか?
成績のよい優等生であったにもかかわらず、父親のスパルタ教育に反抗し。うその、テスト結果を取り繕うだけの単純な理由で火をつけた、
両親とも医者であったらしい。その父親の心境はいかなるものであろうか?彼自身の教育についての考え、人格。性格などはいったい
どういうものであったのだ。
ぼくは、親殺し事件を聞くたびに思い出す事件がある、
金属バット殺人事件である。昭和55年11月深夜。
神奈川県川崎市の一柳幹夫さん(当時46歳)宅で就寝中の父親に向けて、次男の一柳展也(当時20歳)が金属バットで殴打した。父親は声を立てる間もなく頭を割られて即死。続いて、別室で寝ていた母親・千恵子さん(当時46歳)も同様に殺害した。傷は頭と顔に集中し顔から頭にかけて割れ人相の判別ができなかった。
展也は偽装し強盗殺人にみせかけたが、捜査員が、あいまいな返答に不審におもい、問い詰めたところ犯行を自供。
父親のキャシュカードから一万円つかったことと、部屋で飲酒したことを父親に罵倒され、深夜、根静める両親を殴り殺した。
顔が判別できぬほどだったらしい。
展也は、母親から、「反抗期のなかったほど、あつかいやすかった、
良い子であったらしい。」
しかし、2浪中であり、父親は東大でのエリートであり、兄は早稲田をでてエリートになっていた、
この事件が衝撃であったのは、まだあどけない少年のような20歳の
展也が突然切れて犯行をおこなったこと、当時はまだ20歳でも衝撃的であった。親を殺す、という行為。
当時、過熱気味であった偏差値教育。
いい大学=いい人生。それを、打ち崩す事件でもあった。
奈良の少年は、火をつければどうなるかを予測していたのだろうか?翌日、なに食わぬ顔で人の家にあがりこみ、ワールドカップのサッカーを観戦していたという。いまも、淡々とすきなハリーポッターの本を読んでるという。
重大事件の認識がない。罪の意識がない、
奈良の少年も展也も、家出をする、不良仲間に入る、暴走族に入る。そういう行為はない、不良になれないのである。
不良になり、悪ぶる人間はいつしか、ふたつにわかれ、
ひとつは人生の恩人のような人に出会い、修正した人生を送る、
もうひとつは、あくまでも悪の道にいたり、犯罪を繰り返す。
不良になる家はたいてい、貧しくもしくは、父親や母親が教育に関心もなく大学出でなく、逆に社会に反発している、
彼らの家はエリートで、社会的地位が高い。
人生の夢や希望、ビジョン、など、打ち込めるものがない、
学歴がよければ、いい人生が送れるという単純な人生構図しか
描けないひとびとが存在することで、彼らの不幸があった。
現場検証で7月7日、少年は手を合わせたという、
父親と、少年は互いに会うのを避けている、
懺悔の念が両者にでていたのだろうか?
僕は家庭というのは、まず子供たちが家庭を媒介して社会全体を推測し判断してゆくもので、家庭がいわば、社会そのものである。
その家庭がいびつな形で運営されているならば、子供たちの人格形成やその後の人生におきく影響してゆくことになるだろう。
また、性質、性格、そのものは、家庭にありかたに影響するものであり、もって生まれた性質と教えこむ、親の理想の性質との差に子供たちは深く悩むのである、
ささいなことで、犯罪は防止できるのだとおもうが、
展也の事件もこの事件も、彼らの、逃げ道が、見られない
やけぱっちな行動が深く感じる、
逃げ道がない、徹底した父親の態度、そこに愛情の機微をみれることができなかったのだろうか・・
大阪大学の24歳の男が、また、母親を殴り殺した、
もう、社会の中に入ろうとする人格がある程度できているはずなのに、自らの人生を棒に振った。
これは、むなしい。どの事件もむなしい。
親を殺すことは自己否定であるとおもう、太陽を消すようなものだ。
生まれてきて、歩くこともはなすことも親から学び、養育してもらい、
最大の感謝すべきときに、殺すというのは。。
いわば、殺す行為は最大の、「 甘え 」 ではないだろうか?
なんでも、許される、支配できる、精神的な甘え、自己の独立した精神構造を会得できずに人生の岐路にたち、暴挙にである、
勉強する事の意義、社会のレースのあり方、仕事する上での受験戦争の役立つこと、仕事を覚える上での暗記、集中力の必要性。
具体的に判りやすく、勉強することの本質をみずして、
みずからの体験だけで教育し、自らのレールのあとをいかせればいいと、考える親たちがいけないのではないか?
子供たちは必死に、親の言うとおり努力するが、やはり、結果は違う、親は子供を自分の従属物を勘違いし、力づくで勉強させる、
表面上には見えないおおきな、逃げ道のないストレスが発生する。
エリートは人生の多様性を知らない、下層階級でも精神的な豊かさをしらない、価値観が普遍的過ぎる、できない子の痛みもしらない、。飛べない跳び箱みたいなものだ。
いい人生を、送りたかっただろう、誰しもそうだ。
人の悩みを聞く人が減ったようにも感じる、
説教する人も減った。
世なのか軽薄短小になるばかりで、軋轢は重厚巨大である、。