報道のあり方

昨今の報道のあり方にはいささか疑問をもつ、
報道といえども、商売、商売は金銭感覚が必要である。
いわば、金銭感覚をどこでみがくかというと、いかに、部数を上げるかと
いかに広告を取るか。そして、テレビでは如何に数字をあげるかである。

むかしから、マスコミの三種の仁義は、 エロ グロ ナンセンス
ニュースとしては、如何に衝撃的であるか、悲劇は悲劇をより演出し、悪はより悪を表現する、

そういうことを頭に入れてみないとだめであるし、全部うのみにすると、とんでもないことになる、
ニュースが、夜の番組で広がったのは久米宏のニュース番組が歴史的影響をテレビに与えた。その掘り下げた判りやすい番組は人気があった。

たとえば、ある事件の報道で、容疑者の扱いはどうするのか?人権に配慮されなければならないし、犯行が事実かどうか、もしくは司法が裁くまでの間での冤罪であればどうするか、そういったことを考慮して報道すると、犯人は大事にされて、反社会的な人間たちにとってはヒーローになりかねない、それをまねする人間を生み出して、社会を混乱させてしまうのだ。かといって、報道規制を厳しくすれば、社会主義国家の秘密警察の登場となる、報道するものは、その事件を報道するさいに、国民に広めて、事件を宣伝しているという事実を認めなければならない。
悲劇は悲劇らしく、友人の子供が昔、事故で死んだことがあった、友人夫婦は大混乱、報道されることを拒んだ、しかし、同級生から写真まで手に入れ報道した、友人夫婦はそれどころでなくぼうぜんとしている間に、どうでもよくなったいった。
被害者、被害者の家族の犠牲より、紙面を埋めるための夏休みでだしの悲劇のほうが新聞社会紙面のほうが優先されるのである。その紙面により、新聞記者たちは飯が食えるのである。悲劇は悲劇らしく、誇張がないか、事実と反するかという問題もあわせて遺族被害者の許可など、いちいちとっていたら、新聞は発行できないのであろう。新聞批判はまだまだあるが、報道する必要のないものは伝播性の強い悪影響を与える事件事故は報道を控える必要もあるし、みる必要もない、

少年少女の自殺もそうである、練炭で死んだネット自殺もそうだ。あれは、報道する意義は薄い、逆に、被害者を増やす結果となった。

彼ら報道を仕事とするものの、思想や主義が大いなる問題となる、
正義や博愛などを根底とするものであればいいのだが、偏った思考の拡大主義であれば危険である。

NHKや新聞の徴収員が、嘱託であるのがみそだ。

われわれ、報道をすべて鵜呑みにせず、裏を返したり別読みしたりする必要がある。