湊川随道の歴史的価値について(兵庫県土木事務所)
http://web.pref.hyogo.jp/kobe/doboku/minatogawa/kachi/henkan.html
阪神淡路大震災の影響で湊川周辺の壁面などが被害がでました、あわせて
1999年のおける2回の大雨による水害で、掘り下げなどがおこなわれました。
兵庫区の地盤の土砂のほとんどが湊川流域の土砂が基本になっています。
湊川公園の高さをみれば、そのすさまじい土砂乃量が推測されます、1999年の大雨のときは20万トンの土砂が六甲山からながれでたとありました。一回の台風でそれですから
過去の歴史を考慮すればすさまじい量となります。
サイトの中でこの川の付け替えには反対もあり、おりからの政府の財政難もなり、ときの
日露戦争などで財政圧迫、大正年間の米騒動などで、地元の有志が私費で最初やろうとしたことが乗っているのはおどろきです、
湊川は、古湊川(いまのハーバーの辺までの水路)。旧湊川(新開地をながれていた)
新湊川(トンネルでかりも川で長田にながす)とありますが、私の憶測では今の東山から
大井どうりという地名がのこっているところから、和田岬に方面にかけて、ながれていた
古古湊川があったと推測します。いまの、地名から推測すると沢などの地名のついた
上沢、下沢あたりでは、地震において甚大な被害がありました、兵庫県警兵庫署が全壊し犠牲者がでました、新築しなおかつまだ地盤が緩み立てものが沈下しているそうです、地下の土壌が砂地で、深いせいだとおもいます。
土砂がかわにより大雨で溢れ出し、なんども町や家を襲う、そのたびに復興してゆく、
そのおかげで遺跡物がのこるのです。松本どうりでは、縄文、弥生からの遺跡が発見され、近くでは大和時代の役所、いろんなものが埋まっていて、区画整理で発見がなされました。
湊川隋道の歴史的な価値は、それを推しすすめようとした、
北風正造の存在がおきいです。彼の名前は幕末維新と散見されますが、自伝小説がでてないのが残念です。
http://www.marute.co.jp/~hiroaki/uminaritamazu/kitakaze_syouzou/
くわしくのっています。
http://shofu.pref.ishikawa.jp/shofu/kitamae/kikou/hyougo/hyougo_setouti01.htm
石川県のサイトで、北前船のことが勉強になります。


神戸事件
慶応4年(1868)1月11日、明治新政府より西宮の警備を命じられた備前藩の一隊が、三宮神社付近で行列を横切ろうとした外国軍水兵を刺傷した事件が神戸事件である。、明治新政府が日本を代表する交渉相手である旨を外国に対して初めて明らかにして折衝にあたった結果、その第三砲隊長であった滝善三郎正信が全責任を負い、永福寺(戦災により焼失、その後移転)において慶応4年2月9日に切腹することになった。同寺に建てられた滝善三郎供養碑は、現在は能福寺の境内に移され、毎年地元関係者により彼をしのぶ集いが開かれている。当時、その模様は新聞などにより欧州につたえられ日本の武士道の切腹が、衝撃的に伝わった。日本人恐るべしと先入観をもたせた事件でもあり、先のアヘン戦争で中国がくいものにされ白人の黄色人種支配、植民地政策の中では際立った印象を与えたに違いない。
辞世の句  きのふみし 夢は今更引かへて 神戸が宇良に 名をやあげなむ

神戸事件は神戸が舞台となった国際紛争の明治新政府の最初の事件であった。
その碑が兵庫区の寺にあるのはなぜかわからない。

歴史の深い街
歴史が深い、縄文時代より人々はすみ、温暖な気候の下暮らしていただろう。
会下山の周辺にはおそらく大木が林立し、夢野の交差点を中心におおきな草原がひろがり野生の動物などがいただろう。そのあたりは豪族の狩をするところであった。
川は街を作るといわれる。なぜかというと、川は砂を運び、水を運び、すい田ヤ田畑を潤わす、しかし、熱帯モースン気候の日本では、たびたび大雨が降り、氾濫する。
その川を改修、そこの砂を堤防にあげたり、人々は協力する。人々のチカラを合わせ町を再び作る、この歴史が日本の繰るかえす復興と強い民族の形成となった。
あわせて戦乱である、源平の戦いの場所、南北朝の戦い、日本を分断する戦いが2度も
行われたのは、地理的な要因が大きい。海と山のはさまれ、海には湊がある。
兵を一気に輸送できるのが船、権利、ものの行き交う、お金、ひと、物がそろうところ
それが兵庫であった。
断層が走る。
阪神淡路大震災では多大な被害をこうむった。この街では会下山断層が走る。
会下山断層は諏訪山断層の西方への延長に位置する断層で,諏訪山の南で六甲花崗岩体と離れ大阪層群分布域内を通過して西へ延びるが,会下山の西でなくなる。湊川以東の部分では,断層の南東側に大倉山などの標高30m余の小丘があるのに対して,北西側は陥没状の低い小盆地となり,会下山断層は諏訪山断層とは逆に海側が隆起する運動をしている。その中を通り大倉山の東側でこの丘陵地を切断する宇治川は, 会下山断層に沿って屈曲しており断層の右ずれ運動をも伴っていることを示している。
ほかには、諏訪山断層、「長田山断層なども活断層としてあり、諸規模断層も存在、
六甲山脈の構造は逆断層運動といわれ、最近はその動きに横にずれているといわれる、大阪湾はどんどんしずみ、山はせりあがるのである、港が大きな船でも近づけるというのはそのためでもある、六甲変動といわれるものがあるために、狭い土地にやまとうみがあり、土砂が山から川にながされ扇状地のような平野部が武庫川から芦屋川、住吉川、石屋川、都加川、生田川、宇治川、湊川などである。

神戸付近の最も古い石はお多福山付近に分布する中・古生層で,この地域が海域であった時に堆積した砂岩や泥岩などからなる.その後,中生代白亜紀,約8千万年前,大量のマグマが上昇し,その一部は地表にまで達し,激しい火山活動が生じ,火砕流を形成した.その時の堆積物が帝釈山地や有馬山地にみられる(有馬層群、第2図)。また,地下で固まったマグマは花崗岩を形成した.そして,長年の上昇と浸食で花崗岩が地表に顔をだすに至った(第2図).その後,約1500万年前,三田盆地が沈降して湖となった.この湖に土砂のほか,火山灰が堆積した.これが神戸層群と呼ばれる地層である.第三紀末の鮮新世から第四紀更新世にかけて,大阪湾が沈下し,厚い泥と砂が堆積した.この地層は大阪層群と呼ばれ,甲陽園や長田付近に主に分布している.その後,段丘れき層が川に隣接して形成され,沖積層が現在の水系にそう作用で市街地に堆積していった.
参考文献、

http://www.shinsai.or.jp/doc/book950218-2.html

神戸付近の地盤と活断層田結庄良昭

湊川と兵庫区の歴史