変容しつつある犯罪心理の根底にあるもの

犯罪に走るものなどは一般的にみてIQが低いとされる。もちろん、知能的な犯罪をもあるが、その結果得られるものと比べれば犯罪を犯す危険性のほうがたかい。
犯罪を犯すひとびとは、何らかの形で社会に対し不満、恨みなどをもつと言われる。言い換えてみると、それは甘えであり、自分の存在をわかってほしくて泣く赤子の気持ちであろう。幼少時期から少年において肉体と精神が成長し発達する過程で養育者に対しての甘えは根底にある。その甘えが享受されないで成長すると、満足な形での心が芽生えない。
 生きることの大切さの中に、無償の愛がオンされているかどうかである。
暴力や欲得で支配された少年時期を過ごせば、社会的に不適合な人格になりうるのは当然のせつりである。
しかし、すべてはそうもいくはずもない。無償の愛を代償の愛として受け取る形も存在するし、孤独に耐えていきてゆくひともいるはずである。
現在は、情報化、特にマスコミの取材報道の仕方が、犯罪を増幅するところが多い、何回もそれはこのウェブで述べているが、1000万人にひとりでも
極悪犯が英雄視される光景をテレビで感じるならば、確立としては低いが
日本の人口には10数人の極悪犯罪予備軍がおることになる、。
被疑者、容疑者の人権確保についてである、裁判が結審し、受刑者になるまでは犯人確定者としてほうどうしてはいけないのである、
手錠を隠すようになったのは、いつからであろうか?
現場検証や容疑者をブルーシートで覆うのも最近になってからである。
注目をあびることにより、彼らは日頃から打ちすてられているような人間は
満足するのである。その中でテレビを見る極悪犯罪予備軍達は、共感を覚え、模倣するのである、それにより社会は混乱に陥る。
もうひとつ、すべての人間は平等で自由である権利を有する、このことが、問題である。否定するわけでないが、人類の歴史を文明が起きて以降の
数万年とすれば、その中でさまざまな争いがおこり殺し合い奪いあいがあったのであろう、その中で宗教化が生まれ、身分社会がおき、いまに至っている。すべて悪いのではなく。この社会は本来なら抑圧か監視されていたひとびとも自由に権利を有する危険をはらんだ平等社会であると認識されるものである。たとえば、江戸時代、家康は儒教の教えをひろめ絶対君主となりありとあやゆる身分をきめ、封じ込めた。
その中でまだ存在していたのはエタヒミンである。この被差別部落の開放は戦後急速に自治体などにより実施され、現在は影をなくしたようなかんじである。必ずしも犯罪を犯す人間ばかりいるのではなく、その根底の身分社会があるから基準としたものさしの差別で社会のストレスを解消していたといえよう。ある意味、中国、韓国が、日本敗戦後、日本を差別、鬼かすることをベースにしたようなものである。
複雑な人間関係や生活レベルの中で、規範としたものが法律であるはずだがその法律も抑止にはなりえず、犯罪予備軍はつぎつぎと重大犯罪を犯す、それは原因として、社会と対峙対抗する思考が根底になり、守るべきものや無償の愛などが存在しない精神であるからである。
「 死刑になってもいい、あいつらもみちずれ」のような危険発想な人格障害者はどんなきつい刑を設定しても困難なものかもしれない。
家庭環境が変貌し、女がつよくなり、情報化社会により、犯罪の手口や傾向が学習でき、平等人権社会では、いまのような事件の反復が繰り返されるだけであろう。
犯罪心理の痕せきを考察し、教育の現場や自治会、近所などにより、
ひどい環境で養育されている人間の救済を必要と感じる。
幼児虐待や折檻しが報道されるが、これは氷山の一角であろう。
家庭や町で、その犯罪者はつくられているのかもしれない。

具体的にどうなりうるべきか考察するに、犯罪の封じ。検挙と抑止のための監視が必要、報道の仕方の研究(たれながし。対岸の火事、興味本位。)
など。心の健康診断。

犯罪が起こらないようにするのは、10年計画で全体で討議すべきである。
身内が殺された人々のみががまんすることはおかしい、
殺された人が人権を剥奪されたのであれば、犯罪者も剥奪されるべきである。