75. ガスト転換 3

大阪の店で研修は、なんと、立地の吉沢さんだった。
僕の店のガスト転換のときも、見に来てくれた。
プロモーターと、ヘルプの社員が二月ついた。
名古屋からの社員で、ホテルを取るのが困難、事業本部で
ホテルを取ってくれるのだが、それはしかも、遠い茨木市
だった。事業本部もなくなるのであったが
最後の処理に、なぜか、高見さんがいて
声を聴いて驚いた。

ガストはすさまじい口コミですさまじく客数が増えた。
在阪のテレビ局がこぞって放送、爆発的に売れ始めた。
オープン以来日曜日祭日は1000名を越えることがなかったが
軽く、1000名を越えた。テーブルがもっとあれば
売り上げはあがる、108型112型の方が客席が多いので
客数は多かった。
ガストブームが起きた。
マネをするのがどんどん増えた。さとやフレンドリーさん
サンデーサンも、低価格の店をまねて出し始めた。
ファミリーレストランの終焉であった。

あつあつの料理を出すためには、鉄板でだすこと、
この鉄板が実におもい、ひたすら料理を運び続ける。
市川さんは、腱鞘炎になってしまった。
労災申請をしたら、腱鞘炎ではだめだ、といわれた。

すかいらーくのメンバーががんばってやってくれた。
しかし、フロアーのメンバーが予想どうり、耐えきれなくなり
どんどん辞めた。サービスの基本とは何かとか
いろいろ、やっていたくせに、
もう、運動会のようにかけずり回るのであった。

ベルスターの登場であった。
このお客さんが必要なときに、ボタンを押し、
それに応対するという仕組みは、画期的であったが、
これで、フロアーのサービスのやり方は完全に
変わってしまった。
テーブルを見る力が無くなり、
お客さんを見る余裕さえもなくなり。
自発的に、テーブルで食べ終わった食器を下げる
中間下げものさえしなくなり、ただただ、
ピンポーンとなればいき、
料理が出れば運び、レジに並べばはいり、
相当な客数であったので、もう、テーブルサービスは
崩壊した。

もう、いかに回すしかないのである。

ガストになって、なにも考えず、勢い良くなった社員と
ぼくのように、今までのことはなんだったのか、
と悩む社員と、別れた。


初期の「ドリンクバー」
ドリンクバーはすかいらーくの発明だった。






今はなき(旧)すかいらーく、その会社にぼくは費やした時間と情熱を思い出させずにいられない。

注意、このページはすかいらーく本部さま、会社さまとなんら関係のあるものではありません、

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