74. ガスト転換 2

転換の研修は大阪の店に社員といき、ひさびさに他店を経験できた。
その店はいいとも悪いとも言い難い店であったが、
日曜日のディナーがおわり、店長は動かず、控え室で馬鹿話を
ずっと、高校生たちとしていた。初めて見たタイプだった。
その光景をみていると、緊張感のない関係でもあったし
いい雰囲気でもあった、なんでも店長に話すという感じがして
僕にとっては、衝撃であったが、しかし、わかっていた、2番手の社員が
しっかりと実務をこなしているからであり、一人でもそれができるのか
精神的な余裕を維持できるのかということであった。
案の定、数ヶ月後、店長は深夜に働いていないのに深夜勤務を
つけて不正を働いていた。それも2番手社員のリークであった。
ほかの店にも激震が働き、気がつく社員はやってる店長に通告した。
ぼくはやっていなかったので、言われることもなかった。

店をグランドクローズし、看板のつけかえが始った。
すかいらーくの看板をクレーンで降ろすのを見ていた。
1991年の2月に開店看板を立てる光景を思い出していた。
1993年10月に閉店、二年と八ヶ月であった。

エリアマネジメントは終わりを告げた。
大川原さんの送別会が開かれ、多くの店の社員、準社員が
参加し、三宮で行われた。
九州全域のガスト転換しない残ったすかいらーくの部長になられた。

残った食材や食器は桜台に移動し、
簡単な改装がおわり、キッチンのレイアウトもかわった。

ガスト転換でまず、驚いたことは
0時のアルコールオーダーストップが無くなったことであった。
数々の社員が出せないと言って殴られ、怒鳴られ、すごまれ
ぼくも組長に脅され、若い衆を呼ぶといわれたり、
ごうてんが佃で殴られ、福久が朝霧で殴られ
なんで、ださないのか、わからないまま、まじめにやっていた人。
それと、魔法のポットとかいって、
わざわざ、紅茶のポットに麦酒を入れて出して他の人に
隠していた店、数々のことあったにもかかわらず

あっさりと、だした、またこれも後々問題を起こすのだが。

どこかの会で、社長に文句をいった。
「店の風紀を守るため・・」
いろんな話をのちに聞いたが、納得のゆく説明はない。

すべてはトップダウンであった。


ユニホームが上はクリーム色のシャツ、缶バッチに名前
下はジーンズ、靴はスニーカーになった。

今更ながら、この変化に驚き、身だしなみは無になった。
ジーンズは自前、靴もそうだった。
あまりにも味けの無いユニホームだったので
市川さんがバンダナを巻くように提案し、当初はバンダナを
していた。

価格破壊、デフレというものはぼくはガストがやり始めたと思う。
380円でハンバーグを出すというのは創業時の価格で
当時は、700円前後だったと思う。
単価を落として、客数を上げ、回転数を上げて利益を出す。
しかし、回転数を上げるには仕掛けがある。
メニューを単純にしないといけない。

ガストは、九州地区などで実験されていた、スーパーキッチンの
流れも組んでいた。
一番大きいのは、ハンバーグを焼くオーブンであった。
310型の当時のすかいらーくの形では、オーブンは
しゃがみ、なかに、入れて、時間を見て自分で出す。
「オーブン開けます!」とさけんで、あの熱いオーブンを目の前にし
開け閉めする苦労、そして、忘れると焦げる。生だ。
とかなるのです。
それをコンベア化するのが当時は国産のものでしたが、
アメリカのリーンカーン社のコンベアオーブンが価格も性能も納期
も優れていたので、それを導入することが大きなガスト戦略であった。
もともと、ピザやなどで導入されていて、
コンベアにのセルだけで自動的に焼けて出てくる仕組み。

インピンジャーと、呼ばれていた。
これはすごかった。次々と流れ作業でハンバーグが焼けるのである。
しかし、常にキッチンは暑くなり、油汚れは相当な酷いものとなりました。

洗い場のトレンチ方式が無くなった。
これも入社した頃に、フロアーのサービス向上のために
トレンチ(お盆ごと)キッチンがかたずけるというしろもの
ぼくは当時、この餌食になり、洗い場からでれない研修時代をすごした。
副店長もみんな、ばかげた仕組みだ。よくない
といいながらも
これまた、やれ!のトップダウンで渋々やっていた。
それをいとも簡単に、その以前の簡単な仕分けに戻したの
である。やはり、無駄なことだったのだ。

とにかく、末期すかいらーくまでは、手の込んだ新メニューが続き
ピーク時は8人ぐらい投入しないと回らない、労働時間を相当食うわけです、フロアーも卓割りサービスをやっていたから、
卓割りサービスは同じ人が同じエリアですべての作業を完結するということ、
これも人数が必要。
社員も三人体制、二人体制となり、その分のバイトを補う。
なおかつ、リーダー育成、ユニット会議とか
時間を食う。

大きな問題として、対売り上げの人件費率の目安が
35を越えた40にまで迫ろうとした赤信号を点滅していた。
バブル以降の時給単価の上昇も影響を与えた。

メニューを簡単に、少なく、フロアーも少ない人員で回せる仕組み
をいろんなことの知惠でやり始めていたのだ。

初期の「ドリンクバー」
ドリンクバーはすかいらーくの発明だった。






今はなき(旧)すかいらーく、その会社にぼくは費やした時間と情熱を思い出させずにいられない。

注意、このページはすかいらーく本部さま、会社さまとなんら関係のあるものではありません、

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