店はどろどろ、荒れ始めた。
年末年始は12/30ごろからずっと1000名を越えた。
どの店もガストブームで、同じように
どんな立地でも入店がすごかった、
1994年になり、メニューもあまり変わらず、本部が負担を減らすために
あまりメニュー変更をしなかった、モーニングも当初はなかったの
とても楽だった、ただ、フロアーを走り回るので、いつも
息を切らしていた。それと5時閉店になったので
深夜勤務がたいへんだった、でも、稼ぎたいメンバーがまだ
すかいらーくメンバーで残っていたので
なんとかなった、

客層が変わり、とんどもないDQNなのが増え、
オペレーションも粗いので、大きな苦情があちこちで
起き始めた、
大阪の店では、ワインにコルクが入ってるだけで
大変大きな苦情になってしまって、相手が相手だけに
てこづっていた。
そういう情報が一切入ってこないので、ぼくはわざわざ
顛末を書いてコピーし、近隣神戸の店に送った。

深夜の5時になると、未成年者は減ったものの、ヤンキー
暴走族など、鼻つまみものの客が増え、
どんどん荒れていった。

今度は部長がまたして編成替えで
九州に行った大川原さんが再び、やっかいな
関西に帰ってくると、情報が入った。
ぼくは、嬉しかったが、この難局をどうするのか心配だった。
帰ってきて、すぐに、ふたりでご飯を食べにいった。
珍しく、大川原さんは疲れており、弱音を吐いていた。
「ああ、おれもなんか辞めて、違う仕事でもしようかな・・」
とか、いいだした・・。

ぼくは、何も言わなかったが、なんかいろいろあったのだろうと思った、
僕自身も、モラルがダウンしていたし、

社員を変えるから、次の北井というやつ、面倒みてくれ
と、言われた。ああ、またこのぱたーんか・・。
しかし、うちにいた社員が十三店に異動が決まり、よほど酷い店だったのか
店に行かなくなってしまった、大騒ぎになった。
大川原さんも探すが見つからず、失踪したかのように思われた。
そもそも、そいつは前にも一度前科があり、同じように失踪した。
二回目であった。
結局、何度もぼくが家に電話し、奥さんが家にいますといい
大川原さんに報告し、大川原さんが何時間も話をして
違う、尼崎立花にちゃんと、行かせるようにした。
ぼくは、首にもせず、大川原さんはすごいと、思った。

大川原さんとの思い出はつきない。
山陽事業部時代に、着任早々、一番いい店とされる店が
広島観音本町であった、柴田さんであった、
それで、評価されて、西宮の新店にきて、そこから
いったんトラブルがあり、店長をおりて、今度は九州に飛ばされ、
親の都合で、再び、姫路の店に帰ってきた。

その店で苦情があった。
ヤンキー娘が、売店のガムを盗み、客席で食べていたところ
店長が注意した。しかし、このヤンキー娘は親が893で
言い返し、逆ギレをしだした。

一応、レジで後で払うつもりだったという。
そんなもの、払うつもりなどさらさらないのだろうけど、
一般的に、万引きは、店の外に出たとき、犯罪になり
そうはならないという。
ぼくらは、そんなことを知らないし、店の外まで待つ時間も余裕も無い。

結局、大川原さんが893の事務所までいき、
謝罪して、金を包んで、おわらした。
ほんとにばからしい苦情である。本部はそれでも謝りに行かせる、

大川原さんがあとにもさきにもぼくに弱音を吐いたのは
このときであった。
「おれさ、このあたま、ぺたぺた叩かれて、玄関にすわらされ・・。」

よほど、つらかったのだろう。

それにもまして、すかいらーく時代、一番いい店でいい店長が
そういうクレームに包まれてしまい、ぼくは複雑な気持ちで一杯だった。
そして、僕も何度も何度もこの後に、ろくでもないクレームに翻弄される。


初期の「ドリンクバー」
ドリンクバーはすかいらーくの発明だった。






今はなき(旧)すかいらーく、その会社にぼくは費やした時間と情熱を思い出させずにいられない。

注意、このページはすかいらーく本部さま、会社さまとなんら関係のあるものではありません、



77.ガスト転換 5