不登校から 社会の変化を考える

不登校が増えつつあるという、1990年ごろから増え始め、今も根本的な解決を見出していない様子である。犯罪と不登校を結びつけるものはなにもないが、ネグレスト(児童虐待)や登校拒否から発展している不登校の多さの問題は社会全体の変革におけるひづみのひとつであると思う。
まず、子ども自身へのことを考えると、肉体的な成長が日本においては顕著に平均身長の発達および体の成長速度の加速、性成長の加速などが現われ、小学はこどもであるという観念を
捨てるような身体的な成長が高学年において現われている、思春期や性特徴の現われがそもそも小学生と中学生の分岐点のひとつであったが、今は完全にずれている。
幼児においての言葉のおくれ、発達の障害などが起こりつつある現代において、
身体的な発達と、肉体的な発達はパラドックスのように矛盾を含みねじれている。
不登校などの問題に対応すべく学校が努力し、批判されている現状で、教育のあり方も試行錯誤し変革対応していなくてはならない、戦後一貫して同じ教育方針でやるのはずれが生じて当然の結果である、学校側の問題も不登校から考察すると、学校側の物事の判断基準そのものを否定する行動が不登校である、子供からしてみると、意思の伝達ができないので行動として不登校という選択をするのである。選択肢として、当然の存在になりえたいま、ありきたり、旧来の教育方針では、対応が困難になりつつある、
「 努力をするが方法万策はつきた、あきらめの心境。」が蔓延することを危惧する。
不登校がなぜ問題になるというと、その後の社会的な活動において参加しずらくなり、社会の一員として就職や労働といった基本的な生活活動も阻害してしまい、引きこもりなどになり、
その後の復帰がますます困難になってしまうからである。
犯罪がおこる原因の多くは、貧困である。貧困であるがゆえの思い込み、安易な選択として犯罪をえらんでしまう、
不登校の中でもいろんな原因があり、同じとは言えない。行こうとして朝用意までして、その後、動けないような精神になるばあいもあるが、いじめられていけなくなることもある。

いじめについても最近は、あまり語られていない様子だが、根が深いものである。
いじめる側といじめられる側において、この陳腐な論理構造の中には、ある種のルール的なもの
が存在するのではないだろうか。集団(クラス)という小集団が結成され、子供たちは否応なく基準もなくし融合されてしまう。しらずしらずに、いろんな交流がおき、交流の中で本能的動物的に
ボスを見出そうとする、いわばそこが、運動能力がたかいもの、学習能力がたかいものたちが優位にたち人間的な基準を形成してしまう。これは、社会と同じことです。
そして、交流能力、適応能力が優れたものが優位たつ、必然的に、劣るものは場外扱いになる。
彼らたちのストレス、本能的な行動として、攻撃を始まる、その攻撃を仕向ける人間がいじめられるものであり、いじめる理由は非常に子供的であり単純である。
そのいじめに参加することが、いじめられない保身のためであり、いじめを受けている人間も自分のみじめさなどを露見したくないので隠そうとする、
論理的に考えると、社会にある、差別の根本の発想である、
「 あいつよりは・・」という最低な基準を知らず知らずに自分で形成しそれで納得し安心するのである。幕府で家康が士農工商の身分制度をおこない、まだその下に被差別階級をつくることにより社会を安定さそうとしたものがあったが、クラスにおいてもその身分的基準判断を親や教師がすりこむことにより、その力のストレスのはけ口がいじめにつながるのである。
克服できるものはいい、現代では複雑な化学物質、TVパソコン携帯などの電子機器や電波機器
など原因が悪いと判断できないものがたくさんある、いろんな外的なダメージを受けた脳が発達障害をおこし、再び、学校において直接的な攻撃(いじめ)をうけることになれば。
異常な犯罪行動を取る人間が発生してもおかしくないのではないだろうか?
たとえば、宮崎勤はどちらかの手がふじゅうであったし、風貌もさえない、格好のターゲットにされてのではないだろうか?宅間にしてもそうだ、彼の父は暴力で彼を支配し、家庭も不和であった。彼ら自身における問題をさることながら、彼らが無理やり学校にいかされいじめにあっている、もしくは異常な状態にあれば、社会として犯罪者を作成してしまった、といってもおかしくないだろう。
しかし、いわば、不登校は逃げ道としての選択肢であるのなら、それもよしとしなけらばならない。
昔は、社会全体として不登校は考えられないことであったが、今はまったく別物。
それは、学校への不信があるからといえよう。
屈折した性癖も異性への憧憬が平常の人間関係を形成されなかったものである。
ロリータ性癖も自分の子供のころに異性と遊べなかったコンプレックスの裏返しである。
非難や批判し、分析に終始しても一向に埒があかない。
なぜ、不登校が多発し、その後の社会への悪影響と、今のあり方を考察しなければならない。
子供の脳がきちんと成長し発達し、健全な精神を宿るために、家庭の人間関係がきちんとしなければならない。そして、学校においては、根本的な精神的な基準をまずはきちんと作るべきであろう。根本的な精神的な基準とはいったいなんだろうか?
戦前は差別を基本として天皇崇拝史観であった。かなり、シンプルでわかりやすいものさしであったが、戦後、なくなった、人間天皇になり、戦後の基準も時代と思いに変遷していった。
キリスト、神、愛、そういう宗教的なものが大切、そこから波及しいろんな世間のありさま、ルールを理解したりできる。

極悪犯罪を抑止するうえで、まずは、教育からきちんと見直すこと、ネグレスト発見のシステム構築や、いろんな社会悪を撲滅していかなければならない。