福井訪問 20111222 30年の旅
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小山コーポ

朝起きて時計を見ると5時過ぎだった。
予定の時間よりもはやかったが、神戸駅に歩いてゆくことにした。
真っ暗な道を、あのころを思い出しながら歩く。

神戸駅は外観は昔のまま、
1981年12月24日、実はぼくはこの駅近くのケーキ屋で一日だけのバイトをする予定だった・・。それを思い出した、しかし、なぜか、行く気になれず、家にじっといた。

そうしたら、テレビを見ていたら、下宿の先輩鍛冶さんから
電話あった。
「あのな、実はな・・」
しかし、ぼくは何のことかわからず、聞きなおしていると
母親が飛んできて、電話の横で聞いている。
「ぼくは、あわてて、とりあえず、行きます、京都にいきます」
そういって、電話を切り、母親が万札を何枚かわたし、
喪服がない、とりあえず、お父さんの黒ネクタイもっていきなさい・・。

そういって、ぼくは電車に飛び乗り
なんとか、京都の河原町についてタクシーを拾って
「洛北病院までおねがいします!」
そういった。

悲痛そうなぼくの顔をみて、タクシーの運ちゃんは
「どうかしたんですか?」
と、聞いてきた。
ぼくはその声も耳に入らず、
心臓がどきどきするのを感じていた。

タクシーを降りて病院にゆき、裏から入り階段を上ると
鍛冶さんと逢坂君がいた。ふたりとも参っていた。
ぼくは、おもわず、
「東君は、どこですか?」と聞いた、
聞いたと同時に、寝台に乗せられて東君の遺体が運ばれてきた、

鍛冶さんは
「こんなになってしまって・・」といっていた、
ぼくの前には、頭を包帯で巻かれて顔が唇が蒼白で、耳や鼻に脱脂綿がつめこめ
られた彼がいた。
ぼくはあの光景は忘れない、
事故の経緯を鍛冶さんが説明していた、ぼくに・・。
すこし、奥の長いすのまえに、学生らしきひとと、その母親らしきひとが
たたずんでいた、ぼくらに向かって頭をさげていて、でも、その光景も理解できなかった。
ぼくは、はげしく泣き出したのを覚えている、座り込んで泣いていた。
「おい!こら”しっかりせい!」
鍛冶さんはぼくをしかりつけてくれて、それで正気に戻った。

事故のことをまた思い出しながら、神戸駅のホームにぼくはいた・・。

ホームに入ってきた快速は満員だった、朝の6時過ぎで満員、
驚いて乗り込んだが、慣れない電車にたまらなくなり、芦屋駅で降りた。
満員電車がとてもきらいなのである、それにしても朝早くから会社に向かう人々
おそらく、加古川か明石あたりにマイホームを買って、大阪まで通勤するのだろうか
朝早くからたいへんだな・・。ぼくの仕事はそういうこととは別次元。
まあ、満員電車がいやでサラリーマンがいやでこの道にきたせいもあるが・・。


芦屋で降りて、しかし、また大阪駅でも降りた。大阪駅は見上げるような
立派な駅になっていて、浦島太郎の気持ちがわかった、
国鉄時代は駅前に大阪鉄道管理局、略して大鉄があって、
貨物のターミナルがあって、
大阪駅も京都駅も変貌。神戸駅は昔のまま。
そんなに変わらなくてもいいと思うのだが・。

なかなか、いすに座れないまま、サンダーバードに乗ればとよかったと反省。
京都駅から湖西線に乗り換え、ここでも再び滋賀県の高校生がたくさん乗ってきた。
久しぶりに見る琵琶湖は曇っていてよく見えなかった・・。


京都駅ですこし降りて、湖西線がくるまで、はるか30年まえのことを
再び、思い出していた・・。

東君のご遺体はお父さんが福井につれて帰り、
ぼくたちは三人、下宿に帰った、大家さんの店に帰ってきたことを報告。
下宿に帰ると11時過ぎだった。
ここからがたいへんだった。
いろんな友人に電話したり、電話がかかってきたり
下宿にきたり、その応対だたいへんだった。
何回も何回も電話で説明し、相手が言葉につまっているのを感じた。

夜遅く、藤井さんが尋ねてきた。
藤井さんはぼくらの話を聞いたあと、
「夢ならさめよ!」といって、吸っていたたばこのひを手の甲に押し付けた、
「なにするんや!」
こんな痛み・・。そういって思い出したように福井の友人に電話して
実家にも電話して、そのたびに泣いていた。

そして深夜二時ごろ、
東君の下宿の部屋を開け、電気をつけて、
「今日はな・・あっぺと一緒に寝る、ここで寝る・・。」
そういって扉を閉じた。

翌朝、どんどん同志社大学の友人たちが訪ねてきた、
鍛冶さんの部屋にもいっぱいになり、ぼくの部屋にも入ってきた、
みんな、一回は東君の部屋を開けてみるんだ、
でも、入らない、外から見ている。
「信じられない・」としか、いえないのであった。
手が震えて電話欠けれなかった、下宿の電話番号を思い出せなかった。
みんな、気が動転していた・・。

ぼくらの下宿では、家族同然でつきあっていてので、
いわば、京都の遺族のようなものだった。
東君の脱いだ靴下は足の形をしたまま、二日目を過ぎた。

翌日、みんなで福井に向かうこととなった、葬式にゆくためであった・・。

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2011年12月27日 23:22:57

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