福井訪問 20111222 30年の旅

東君が亡くなって30年がたち、ぼくはそれをしのんで墓参を実家を訪問ししました
・・。

ぼくらの下宿は古い古い、うなぎ床といわれる家屋を部屋ごとに学生に貸していた
名前もない下宿、
数多くの人々が出入りし、数多くのドラマを作った、
ぼくは、命名した、「小山コーポ」という。

太田ひろ美の歌の「振り向けばイエスタディ」この歌の歌詞はいまだに色あせずに胸に
せまるものがあります、松本隆先生は木綿のハンカチーフといい、この歌といい、すごいです。

{いまでもときどき、夢を見るんだ 白紙の答案、
にらんでいる夢 君と一緒に一夜ずけした、ノートの隙間に朝日が見えた}

このフレーズを聞くと、ぼくも同じように何度も何度も見る夢がある、

大事なテストを寝過ごし、徹夜しすぎて、試験を受けれず留年する夢、

それともうひとつ、ひたすら、下宿で寝ている夢。

この二つはよく見た、友人の清水にいうと、自分も見るという、
僕の中では強烈な記憶としてのこる、京都の下宿の記憶。
その話はたくさんあります、

ぼくは、神戸から京都の山奥まで一年間通学していました、親に下宿は金がかかるから
通学しなさい、と、いわれてすなおに通学してました。最初は・・。

一時間目の授業があるときなど、5時45分の始発で阪神御影から普通にのり梅田に向かうこれがまた、おそい、梅田につき、てくてく歩き、阪急を目指す、
動く歩道も寝ながら歩く、大阪はいらちで、あの動いている歩道さえも歩く、
歩きすぎて加速度がつき、おりるときはふらつくひとがおおいほど、急いでる。
阪急梅田から通勤快速で京都線にのる、ここも始発だから、座れる、、
しかし、あの茨木から高槻の込みようはすさまじい。
座っていてもひざが押される、
寝たふりに限る、真剣に寝ていたが。

そこから四条大宮でおりた、まだまだ、つかない、そこから京都市バスにのり
上加茂神社を目指すですが、ここもすさまじく、京都の女子高が暴力的に乗り込む、
何台も乗り損ねながら、つり革にしがみつきながら
なんとか、神社につく、

でも、まだつかない、

そこから、また、スクールバスにのり、山の上を目指す。しかし、バスはこない、
やっと、バスにのり、大学につくんだが、

最後の関門があるのです。おそろしいほどの階段、永延階段をのぼり、三叉路にでて、
あるき、一番奥にある校舎が、我らが外語館。

もう、つく頃にほっとするわけです、

しかし、入り口にある掲示板に人だかりが・・・


「本日の講義は休講です」

ああああ!もっとはやくいって!横を見ると、滋賀からの友人、大阪南港の友人、
川西の山奥の友人、いずれも二時間以上かけて来た同志たち。

もう、通勤電車はうんざり、バスもうんざり、
ぼくが就職するときに選択した理由に一つの中に入るばかげてるリーズン。

大学の通学時間、往復5時間ちかく、学生時代におけるその割合を計差すると
かなりの時間になる

ぜったいに!家出もしても下宿するぞ!

そう、思う18歳のぼくであった


バイトをしてやっとのこさ下宿をすることができたのが1981年4月のある日。


下宿は古い家屋であった、長屋でもあった、横の家は豆腐屋。豆腐屋は朝が早い、4時過ぎから
機械がごとごとうごきだす。最初は目が覚めるのです、
まえの家は、かわいい女子高生がすむ、山田さん、いつも挨拶をしてくれる、夕立が来ると、僕らの下宿では二階のあずまくんの部屋に集合、
向かいの山田さんの家のものほしに、かわいい女子高生が短パンであわてて洗濯物をいれる。
その光景を見るのが感動的であった、感動的ナきれいな足であった。

京都産業大学三人と同志社ひとり。
下宿のメンバーは3年に先輩の鍛冶さん、2回のぼく、2回の同志社のあずまくん、一回の逢坂君、このメンバーが共同で一軒の家を間借り。

ぼくは、とりあえず、部屋代を節約しようと、学生部の一番安いものをさがしだした。
春休みでバイトしたお金が25万ほどあり、魚屋でバイトしたのだが、
三畳一間というおそろしく狭い部屋で、6000円という家賃。礼金が12000円、当時は2万から三万が主流だったが、あのせまさはまいった、それでもうれしかったのだ。

思い出すのは申し込み用紙を大学の学生かで書いているとき、前に男がいて、ちらっとみると。
同じ申し込み。「な-1」であった、

ぼくは、やばい!とおもい、すかさず、書き上げ申し込む。セーフ。あいてはきずかず
「これはもう、おわりました」といわれた、肩を落とし帰る彼。
よくよくおもうと、あの数秒のことで、あの下宿のメンバーとは一生あうこともなかったんだとおもう、強烈に3年間、あの下宿でのであい、わかれが僕の人生を決定付けたとおもうのだ。



あのことは、昨日のことのように覚えてる。
1981年12月24日午後4時45分、北大路下加茂本通交差点で
今井京阪神という運送やのトラックに学生アルバイトが運転するトラックが
左折、直進する原付バイクに乗った、同志社商学部二年の東俊一君が
激突し、頭を強打し転倒、洛北病院に運ばれるも死亡、
彼の人生は21歳とすこしで幕を閉じてしまった。

  
下宿の逢坂くんと夕方の雷鳥で福井での葬儀から下宿に帰ってきたのは1981年12月27日の夜だった。
大家さんに挨拶に行き、ふたりで重たいあの下宿のシャッターを開けた。
静まり返ったまっくらなあの下宿はそのままだった。

ぼくは、なぜか、そのときぶるっと、寒気がした。
「あ、まだ、東君はこの下宿にいるのかもしれない・・」

そう感じた、
下宿に帰り、ぼくは自分の部屋にもどるためにあの急な木造の階段を昇った
逢坂君は寒い下の部屋に入った。

ぼくの狭い部屋のよこに東君の下宿の部屋があり、
ぼくは、そっと、彼の部屋を開けてみた。

なにもかわらないまま、そこには数日前に彼が過ごしていた部屋があった。

布団がひいてあり、脱いだばかりの靴下が脱いだままの形をのこして
そこにあった。
逢坂君が「靴下がそのままや・・」といって泣いていたのを覚えている。

かれの部屋はがらんとしていた、ぼくはなぜかすぐに彼の部屋を閉めて
自分の部屋に戻り、電気をつけてコタツに入った。

この数日のできことを思い出していた、何があったのか、夢だったのか
ぼっーとして、ラジカセにカセットテープを入れてきこうとしたが
何も聞く気がせず、そのまま天井をみていた。

すぐに階段の音がして逢坂君がぼくの部屋に来た。
「ひとりで、下にいるとたまらないんで、いてもいいですか・・」
ぼくの狭い三畳一間6000円の部屋に入り込んできた。

しかし、まったく会話がなかった。何をどう話すのか、何時間も二人で
だまっていた。

時折、下宿の前の一方通行の道をバイクが通過し
そのたびに、ぼくは、下宿に彼がもどってきて、元気よく階段を登り

「なにしとるんや!」と、福井弁で笑いながら話しかけてくるような
感じがした。

「あ、かえってきたのでは!」ぼくはまじめにいったつもりだが
逢坂君は冷たく。
「やめてください!」とふさぎこんだ。

まったく、その晩も眠れなかった、何も食べるきもしなかった。
気がつくと、夜が明けていた。

「今日、かえろか、」
「そうですね、帰りますか、いったい、今日は何日ですか?」
「わからん、もう、28日か・・。」

もう、事故の日から四日たっていた、でも、それは遠い昔の記憶のようでもあり
連続した一日のようでもあった・・。

あのころのことを今思い出してる。
思い出したくないようでもあり、思い出すとつぎつぎとj光景が浮かんでくる。


時間をさかのぼる・。

東俊一君の葬式がおわり、火葬場についていった。
たしか足羽山の火葬場だった。
妹の直美ちゃんの声がいつまでもいつまでも忘れることができなかった、
鍛冶さんもそうつぶやいていた。
「あの声は一生わすれられないな・・」

鍛冶さんはどことなく、ジョンレノンに似ていた・・。


津川雅彦という話もある。やきそばUFOばかりたべていた。
下宿の二階からUFOのお湯を雨どいから流してすていた。
一階の逢坂君は二回からのお湯でいつもびっくりして庭を眺めていた。

「なぜ、お湯があまどいからでてくるんだ!」

とりあえず、そこはおもしろいとこ

話が前後して、時間軸も大幅に飛んだり戻ったりする。
そう、30年の月日をタイムスリップし続ける、

30年もたったのですね
いや、30年ははやかったですね、

直美ちゃんの声は
「おにいぃちゃん!!」と叫ぶ声だった。棺おけが焼き場に入る寸前に出た声だった、

鍛冶さんとぼくはその声が耳に刺さるのが忘れることができないと、
帰りの昔の福井駅の前の居酒屋で話した、葬式の帰り、みんなで居酒屋に入った。
もう、みんな、参っていた、寝れないので疲れていた、精神的にも相当参っていた。

いまさら、こんなことを思い出してもしかたないんだが、つまらないことでも
些細なことでも覚えているので、羅列して当時のことを思い出しながら
30年後の今を語り、その間の30年はどうだったのか
それが一番大事なのかもしれない・・。

話がばらばらだ。読みづらくて申し訳ない。。

藤井さんもいた、藤井さんは足羽山の公園をみて
思い出したらしく、
「このへんで、あっぺとよくこどものころあそんだ・・」

そういいながら振り返ると

火葬場の煙突から煙があがっていた・・

「あああ・・・もう、灰になってしまったんか・・」
藤井さんは空を見上げ、座り込んだ、ぼくは返すことばもなく

藤井さんとぼくと鍛冶さんと逢坂君とその場にたたずんだ。

誰も何も言葉がなかった、空は晴れていた。あんなに悲しい煙をみたことはなかった。

今回、福井にゆこうと、30年ぶりにおもったのは、
藤井さんの転居通知がきたからだ・・。
藤井さんは某大手生保に勤め、舞鶴から東京に転勤になりそのはがきを妻がみて
何気なく質問した・・。

「藤井さんは、どういう友達?」
一度説明したつもりだが忘れている、
「友達の友達・・」
「大学は京都産業大学?」

「いや、ちがう、京都大学?」

そして、下宿の説明をして、再び、何回も説明しても複雑な関係をいい、
ぽつりと、30年たって、福井が気になってしかたない・・。

「墓参りにいってくればいいよ」そう、妻がいった。
ぼくは、毎年行きたいのはやまやまであるが、時期が忙しい、妻の父の墓参りに行く日
でもあり、年末の買い物などもあり、遠慮して言い出せなかった。

藤井さんの転居通知がきっかけとなり、東君のお父さんにメールをおくり
福井にゆくことを報告した。
そこから始まった・・。

続く・・
 2 へ

更新作成2011年12月26日 23:51:29

下宿の近所にあった食堂、競馬新聞を読むご主人と奥さんが
やられていた、しかしもう閉店したようだ、ありがとう!といいたかった。ランチが300円というのがあった、当時は食べ物は高かった。