福井訪問 20111222 30年の旅
葬式にはたくさんの人がこられていた。
お父さんの仕事関係もおおく、東君の友人も多数こられていた。ほとんど記憶がない。
どうやって福井にいったのか、ある青年がぼくのほうをにらんだのを覚えている、
その青年は東君の友人か親戚か、辺りを見回してにらんでいたのをおぼえている。
「だれが犯人だ!」と、探すような目つきで
ぼくはその目とあって、目を伏せてしまった。
あの怒りは相当のものであった。
ぼくが加害者と勘違いされたらどうしよう・。
とも考えた。病院で逢坂君が東君のバイト先の社長がえらそうに
「おまえがやったのか!」といったのを思い出した・・。
ひどく傷ついたと逢坂君は何回もいっていたのをおもいだす。
しかし、東君はそういう争うことや怒りを表現することはない穏やかな人間性をもったひとであった。
近江舞子についた、駅はがらんとしていて
次の快速をまった。
湖西線もぼくが中学のとき開通したのをおもいだす、
もう、高架も古くなり痛んでいる、あの昭和の時代だから
耐震強化はどうなんだろうか、といつも建物などをみると
思ってしまう。
快速がきた、中はまばらだった。



本当に久しぶりに一人で旅にでた。
短いたびだけど、昔ぼくは一人旅がすきだった・・。
客車の窓からの風景を見るのが好きで
知らない世界に行くのが好きだった。
いまは、あまりしらないところもなくなったし、
どこへいってもつかれるのでそういう気分になれない。

敦賀について、金沢ゆき普通に乗り換えて
いよいよ福井に近づいてきた。
ぼくが30年間、ことあるごとに思い出していた福井。

駅はきれいになっており、
昔の福井駅のイメージはなかった・・。


駅につくと、東君のお父さんが迎えにきてくれていた。
もう30年もあっていないので、お互いわからないだろうと
思っていたのだが、
すぐにわかった。
何か通じ合うものがあったのだろう、
お父さんを握手し、その足で、東君が眠る
「深谷霊園」に車でつれていってもらった、
一度来たことがあるのだが、まったく道は覚えてなかったのだ。
1985年ごろ、金沢の友人にあいに車できたとき
福井で降りて、車でお墓にゆこうとおもって
いったことがある、しかし、見つけることはできなかった。
しかたなく、あきらめて帰ろうとしたとき・・。
東君のお父さんらしきひとが建物の中に見えたように
思えた。声をかけようか、そのとき迷った、
でも、悲しみが増すだけかもしれない・・。
そう思って、その場を去った・。

今回もぼくが訪問することで泣かれるだろうとおもった、
ぼくも泣くだろう、
でも、それでいいのだと思うようになった。
これも自分が年を取ったせいだろう・・。
ぼくとお父さんが霊園につくと
激しくみぞれのような雨が降ってきた。
雨の中、傘をさし、なかなかつかないろうそくを
つけようとするおとうさんの背中を見ながら
何からはなせばいいのだろうか、そう考えていた、
でも、自然と話ははずみ、
お参りをし、

食事につれていってもらい、家にもいれてくれた。
お父さん、お母さんと話をした。

ぼくは仏前に供えたのは
日本酒と、あのもやし、そしてうどん。
さだまさしのベストCDをお供えした。

「もやしをトースターで焼いてたべるのがすきだったのを
覚えていますか?」
そういうと、お母さんは泣きながら覚えていると答えた。

東君のアルバムを見せてもらった
幼少のときから大切に大切に妹と育てられ
学校に入り、修学旅行の東京へいったときのものとか
みせてもらった。
バトミントンの選手でインターハイまででたとか、
同志社では特待生の学生だったとか、
知らないことがたくさんあった。

ぼくが知っていて両親がしらないこともあった、
30年たって、そういうことだった。

鍛冶さんと東君とぼくはそれぞれ
「みゆき」という女のこに振られたこと、
お父さんはびっくりして
「おなじひとですか?」と聞いてきた。

「いやいや、偶然同じ名前ですよ・・」

そういえば、お嬢さんがたずねてきましたよ
と、お父さんがいった、
どこかで買ったお土産を渡せなかったから
もってきた・・。

という話だった。

ぼくは、あのこがきたのだと、思った。

もう、あれから、あのみゆきちゃんも結婚して
いい年になって、どうしてるんだろう・・。

「それから、大家さんも来たんですよ福井まで・・」

ぼくは、驚いた。あの大家さんも福井にきたのはぜんぜん
知らなかった。
大家さんがその後、お酒を飲んでは夜中にぼくらの下宿にきて、しかも、東君のあとにはいった大江君の部屋に
入ってきて、大江君がかんかんになっておこっていたのを
思い出した。
あのときは、大家さんをどこか、酒飲みのおっさんだと
ばかにしていたのだ、
でも大家さんも実はつらかったのだと、いまさらながら
おそいのだけど、わかった。

あのときは、何度も何度も夜中の下宿にきて、
しかも、みんな寝てるのに
突然、
「俺の地蔵をしっているか?」
と、聞くのだ。ぼくたちは寝ぼけてなんのことかわからない。
その話がとてもへんだったので、のちに
大家さんの歌を作ったのを思い出す。
地蔵のロックンロールという歌だった・・。

いろいろな話をして何時間がすぎ、
お父さんに再び駅まで送ってもらった。
もっと、いろんなことを話したかった。
でも、30年のこのあいだのことも
ぼくはとても大きなものを感じていた。
元気に生きておられるのだ、楽しくやろうとされているのだ、
乗り越えてきたのだ、
さまざまなことを・・。
ぼくらもあのときから年をとり、30年のたびを続け、
いろいろなことがあった、いやなこともたいへんなことも
うれしいことも、悲しいことも、
でも、それは生きているから感じることであって、
生きているから経験できることであるのだ・・。

一枚の写真があった。
大学のとき、下宿の写真がぜんぜんない、
と、お父さんは嘆いていた、
実をいうと、ぼくも一枚も彼の写真をもっていなかった。

でも頭の中にはくっきりと、彼の顔は残っている。



2011年12月22日福井で東君の両親と撮影。一番元気ないのがぼくか。。
なんと、この写真はお孫さんのまりちゃんに写してもらいました、とてもかわいい女の子
だった。


そひて、また旅はつづく・・。
いつまでも君を忘れない。

2011年12月29日 1:00:36
そして、雷鳥で大阪に向かうのであった・・。
しかし、もう雷鳥なんてのはなくて、サンダーバードという名前にかわっていたのだ・・。
なんでも横文字がいいと思っている日本人は・・

帰りの電車の中でいろいろなことが思い出された。

葬式がおわり、後輩の逢坂と京都までかえり、
もう、夜遅くになっていた、大家さんに報告をし
あの大きな重たいシャッターを開けた。

真っ暗の中、誰もいない、静かな静かな下宿がそこにあった。
ほんの数日前まで東君が生きていた、ぼくらが生活していた下宿。

本当にしずかだった。

僕は身震いをした、なんどか、経験のある、あの身震いである。
東君の霊がそこにまだいたんだろうと、今思えばそう感じる。
でも、若いときのぼくは、怖かった、実に怖かった。
死ぬということが怖かったのかもしれない。

そっと、二階にあがり、自分の狭い部屋をあけはいった。
そして、窓ガラスごしに、東君の部屋をみた、
真っ暗だった。
でも、そこにいるようなかんじがした。

そっと、彼の部屋を開けてみた、
今さっき脱いだばかりの靴下やジャージが
そこにあった。

ぼくは、落ち込んだ気持ちのまま、自分の部屋のこたつにはいり
何もする気がおこらず、ぼーっとしていた。
逢坂が一人で下にいると怖いから、部屋にいれてくれと
言ってきた。

二人で無言のまま、何時間も何時間も夜を過ぎるのをまった、

時折、下宿のまえのみちをバイクが通過し、

あ、かえってきたのかもしれない・・。
と思ったりした。

サイレンの音が聞こえ、北山とおりを救急車が走るたびに
ミミを抑えたくなった。

夜明けまじかになり、いつものように5時過ぎに隣の
豆腐やさんのコンプレッサーの音が聞こえ始めた。

ぼくは、その数日の出来事がまるで悪夢のようであり、
またたくまに時間が過ぎ、気がつくと、誰もいない下宿で
呆然としていた。

「帰ろうか・・」
ぼくも逢坂もそれぞれの実家に帰るしかなかった。

下宿の鍵を閉め、振り返りもしないで駅へと歩いた・

もう、その日が12月28日になっていた。
数日でぼくは20歳になった。
ひどい生活をしていた大学二年、夢にまで見た自分で金をためて
した下宿の一年。1981年が終わろうとしていた。

神戸に帰り、長い髪の毛を切って、丸坊主にした。
20歳になって、丸坊主にして、相当参っていた。

正月もおわり、としがかわり、
それでも、何もする気が起こらなかった、
大学では後期試験がはじまり、それでもやる気が起こらなかった。
必須のスペイン語のテストをひとつ、受けなかった。
スペイン人の先生は、すごく怒っていた、

何もする気が起こらず、
なぜ、人は死ぬのか、
なぜ、人は生きるのか、
そういうことが頭のなかをよぎっていた。

好きだったオフコースのLPを予約していた、
over というLP、カセットテープにおとし、
何回も何回もヘッドホーンで聞いていた。

そのLPのテーマは 別れであった。
ぼくのそのときの気持ちを代弁してくれてるように・・。

火葬場で
「おにいちゃん!」と叫んでいた、妹の直美さん、
直美さんにぼくは30年後、このCDをプレゼントした。

2013年03月19日 火曜日加筆